石の叫びに敏感であろう“Be sensitive to the cry of stone”(英文付) 

「石の叫びに敏感であろう」“Be Sensitive to the Cry of the Stone”  Miyagigakuin Women’s University  June 14th, 2017

 宮城学院女子大学・大学院 2017年度キリスト教教育特別集会
 2017年6月14日(水) 午後1時~2時半
 講 師 : 岩村義雄 神戸国際キリスト教会牧師

完全原稿 ⇒ 石の叫びに敏感であろ出典各頁b
      「石の叫びに敏感であろう」出典最後

英文完全原稿 Complete manuscript of English ⇒ Be sensitive to the cry of stone

プロジェクター 一覧 PowerPoint 資料

宮城学院女子大学 2017年6月14日 Pastor Yoshio Iwamura
宮城学院女子大学聴衆 780名 Pastor Yoshio Iwamura

主題聖句: 『ルカ 19章40節』イエスはお答えになった。「言っておくが,もしこの人たちが黙れば,石が叫びだす。」

目次 (1) 無関心 out-of-touch   stand apart

a. 無関心という「石」の心

  • 有神論世界観                 3
  • 人間の脳が創り出した妄想           4
  • ゲーデルの不完全性定理            4
  • 無神論                    4
  • 愛が冷えた時代4
  • 尼崎連続殺人事件 4
  • 無関心型か束縛型か 5

c. キリスト教会の愛は深いか

  • 寄附文化5
  • 熊本・大分地震6

  (2) 疑う者は救われる

a. 二者択一への疑いから聖書観は始まる7

  • 警報を聞いても逃げない7
  • 2016年11月20日の警報7
  • 二元論8
  • 悪魔8
  • 二項式から三項へ9
  • 防潮堤10

b. 信じる者は救われない

  • 二心10
  • 指導者に服従10

c. 二者択一から第三の選択へ 筆者の聖書観

  • 正反合の弁証法11
  • 神と富のどちらに仕えるのか12
  • オレオレ詐欺13

(3) 石の叫びに対して,「しゃべくりより実践」

a. 石の叫び13

  • 信仰義認13
  • 藁の書簡13
  • モーセの謙遜14
  • 神の選び14
  • バヌアツ14
  • 貧困15
  • イタリア中部アマトリーチェ15
  • ラクイラ地震への安全宣言 有罪実刑16
  • フクシマ原発の安全神話16
  • 山下俊一16
  • 第1次ベトナム・水害ボランティア16
  • 神の選びは石の叫びに敏感な者17
  • イエスは「柔和」か17
  • 新約と旧約17
  • イエスの復元図17
  • 本田哲郎17
  • 炊き出し18
  • マザー・テレサ18
  • 路上生活者の三重苦18
  • カン拾い18

c. 石の叫びに敏感な生き様

  • 共苦19
  • 宗教と暴力19
  • ディーセンシィー19
  • ナガサキの原子爆弾20
  • 共生,共苦,苦縁20

<序>
「石」とはどんなものですか。みなさん親御さんやどなたからかちゃんと説明を聞かれたので「石」についておわかりですか。砂,岩,土と同じでしょうか。お友だちや,家族のだれかから「石」と言われて,なんとなく石というものについて,人にも伝えることがおできになっています。しかし,“「石」とはなんぞや”と改まって聞かれると,「砂利」「棒きれ」「身体にできる結石」「岩」との違いを即座に説明してみろと言われてもなかなかできませんでしょう。
子どもの時からきれいな石,変わった模様の石,珍しい色の石があるとすぐにポケットに入れました。ですから母親からよく叱られました。なぜならポケットに穴があきます。ポケットにしまいこんだはずのものをすぐにどこかで落としてしまうからです。結婚しても,そのくせはなくならず,おそろいのスーツのポケットもすぐに穴が開いてしまい,家内が繕わねばならず苦労をかけました。見知らぬ土地に行っても,道にころがっている石に目が向きます。東北ボランティアに来て驚いたことがあります。関西と東北ではお墓がまったく違うからです。最初,渡波(わたのは)が車も通れないほどの被害を受けていたところにさしかかりましたとき,佐藤金一郎さん(75歳)という地元の方に,2011年3月21日,高台に案内していただきました。洞源院というところでした。墓石の色が真っ黒なんです。玄武岩だからです。近畿地方,中国地方は御影石が多く,地面も白っぽいのです1)

石巻市南浜町 2017年6月19日

2011年,東日本大震災により未曾有のおびただしい犠牲がもたらされました。神戸国際支縁機構は阪神間から学生たちも含めて宮城県石巻市渡波を毎月のように訪問しています。今度の日曜日(2017年6月18日),第75次東北ボランティアも神戸から向かいます。先月は田植えをしました2)

画像 田植え

『牡鹿新聞』(2017年5月26日付)
『石巻日日新聞』(2017年6月2日付)
6回目田植え 2017年5月23日 Pastor Yoshio Iwamura

震災直後は,津波で流されてきた石,自動車,家,船などのがれきを田んぼから取り除く作業から始めさせていただきました。まったく農業を経験したことのない若者たちは神戸で,「Let’s 農林漁」という講座で日本有機農業学会会長の保田 茂先生から無農薬,有機のおいしい米づくりなどを学び出すようになりました。神戸市西区でも若者たちが土と格闘しながら,新鮮な野菜も栽培しています。
3日前,筆者はいつものように格安の飛行機で,イタリアの地震被災地から帰って来ました。

宿泊は寝袋で空港のフロア Pastor Yoshio Iwamura

今日は,「石の叫び」に耳を傾けるという主題ですが,石は叫ぶのでしょうか。ご一緒に考えてみたいと思います。
完全原稿です。文章にする際は,「私」はすべて「筆者」に変えています。

(1) 無関心 out-of-touch   stand apart
 a. 無関心という「石」の心
「わたしは彼らに一つの心を与え,彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き,肉の心を与える」の言葉にありますように,筆者の心はいつも「石の心」(ヘブライ語レヴ ハエーヴェン)でした(エゼキエル 11:19)。ローマ・カトリック教会三代目で育ちながらも,キリスト教会に歯向かうために情熱をもって過ごした13年間はまさに「石の心」でした。神戸の最も西,明石市にまたがる明舞団地のある地域で,教会をつぶそうと情熱をもっていた罪人の頭のときがありました。先月,5月26日,「阪神宗教者の会」の帰りに,親しい赤川祥夫牧師(日本基督教団岡本教会)から,「そこに今でも教会が残っていれば引っ越しして,そこで牧会をしたいものだけれど」,とぐさっと言われました。もちろん冗談が半分入っています。
みなさん,神はいますか。無神論者ですか,それとも有神論者ですか。ではどなたか,神は存在すると証明できますか。風は目に見えません。葉っぱが揺れているから風があるように,造られたものを通して,知ることができます,とかつては無神論者に帰納的(ア・ポステリオリ)に狂信的に語って,自己満足していました。「ローマの信徒への手紙」1章20節に,「世界が造られたときから,目に見えない神の性質,つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており,これを通して神を知ることができます。従って,彼らには弁解の余地がありません」とあります。神戸改革派神学校で聴講する筆者に哲学を教えてくださった春名純人名誉教授は,自然の世界には自然法則があり,精神の世界には規範があることから,神は今もこの創造の法を通して世界を摂理的に統治しておられる,と有神論的世界観を説かれました3)。狂信,盲信,軽信から脱皮するように哲学的思惟に目が開かれました。
神が存在するなんて言っても“人間の脳が創り出した妄想”に過ぎない,と脳科学者の茂木健一郎[もぎ 1962-]先生や, 2012年に一般財団法人苫米地国際食糧支援機構を設立した苫米地英人[とまべち 1959-]先生は言われました4)。一方,数学者クルト・ゲーデル[1906-1978]は「もし必然的存在の概念が無矛盾であれば,それを成立させる対象が存在するはずだ」と神の存在を“不完全性定理”という理論でだれも否定できない論理で証明しました5)。近代科学の父と言われるアイザック・ニュートン[1642-1727]は,神の存在を証明する方程式を作ろうと試みましたが,できませんでした。されどゲーデルはやりとげました。
画像 クルト・ゲーデルの存在論的証明 5)

無神論に 対して数式をもって 神存在を 証明。

みなさんは,神存在について,筆者と同じ昆虫好きの茂木先生や,脳機能学の苫米地先生が言われるように脳が神をつくり出したという説と,不完全性定理のゲーデル博士のどちらがうけいれやすいですか。
さて,筆者自身はいろいろなところで,茂木先生と同じように「無神論者です」と言うことにしています。生物学者であり『神は妄想である―宗教との決別』を2007年以降,ベストセラーになりましたリチャード・ドーキンス博士と同じ斬り込みです。筆者とドーキンスの類似点は9・11テロを契機として生き方の転換点としていることです6)。ただし動機が異なります。東北ボランティアに参加した学生たちの中で,筆者が牧師だとわかっているメンバーは「そんなこと言っていいのですか」,とけげんな顔をして筆者を見つめます。「神を知らぬ者は心に言う」という「神を知らぬ者」(ヘブライ語 ナーヴァル「愚か者」の意『新改訳』)みたいでしょう(詩編 14:1)。無神論者は,うなじが固く,石の心のように一義的な見方をする人間の特長です。つまり聖書によると無神論者は「愚か者」です。しかし,筆者は,神は存在するか,存在しないかを論じることは立場によって平行線になると思っています。無神論者にいくらていねいに,またある場合,脅迫的によって信じさせようとしても徒労に帰することを何度も経験してきました。ですからこう答えるようにしています。たとえば,ここにコップがあります。ここの教室にいない人にとって,筆者が「コップがあります」と言っても,見えませんから,本当かどうか確信できません。共産主義を理想とする方にとり,宗教はアヘンです。宗教者が演繹的に神はおられるんだという大上段からの斬り込みをしても納得されません。コップがあるかないかのように,見ていない人にとっては,コップは存在していません。神も存在していないのです。しかし,筆者はこう述べることにしています。“確かに神は存在しませんね。ここにあるコップも,机も,すべてのものを存在なさしめる方がいることを筆者は信じています”,と答えますと,学生たちも,「なるほど」,と反応します。
では,あなたの心は「石」のように固いですか,それとも「肉」のようにやわらかいですか。

 b. 愛が冷えた時代
「不法がはびこるので,多くの人の愛が冷える」(マタイ 24:12)。「また,情けを知らず heartless」[ ストルゲー〈自然の情愛を欠く,愛情のない,無情な〉の意]がはびこる時代です7)。主犯格の女性(当時62歳)は兵庫県尼崎市で起きた連続殺人事件では情愛がない非道な犯行に及びました8)。哲学者ハンナ・アーレント[1906-1975]は現代を「暗い時代」(ブレヒト)と言います。「そうした時代に生き,教育を受けた人々は,恐らくつねに世界とその公的領域にあまり関心を持たず,できる限りそれらを無視しようとする」,と9)

見ざる,言わざる,聞かざる

強さと自己責任を要求する現代の日本社会では,弱い人や貧しい人に対する無関心の空気が形成されています。無関心は愛の反対語です。私たちは今,そういう意味での愛が冷えた時代を生きています。愛の反対は,憎む対象にすらならない無関心なのです。
画像 熊本・大分地震 季刊誌『支縁』No.18(2頁 神戸国際支縁機構発行 2017年2月)。

季刊誌『支縁』No.18(2頁 神戸国際支縁機構発行 2017年2月)

皆さま方聴衆には女性が圧倒的多いようです。身近なことをお尋ねします。もしボーイフレンドや恋人,結婚相手を選ぶとしたら,どちらをお望みですか。あなたに対して放任主義といいますか,「無関心型」か,それともあなたのことが気になって仕方がない「束縛型」か。

無関心型か束縛型

日本でアンケートをとってみますと,男女ともに「無関心型」を選んだ人が過半数を超えました。男性の56.8%に対し,女性の方が63.2%とやや高めの結果となりました10)。「無関心型」を選んだ女性は「自由な時間が欲しい」,「自分らしくいられる」といった声が多数。働く女性が以前より増えたせいか,個人を尊重してくれる男性に好感を抱く女性が多いのかもしれません。マックス・ピカート[1888-1963]は,「愛のなかには言葉よりも多くの沈黙が含まれている」と言いました。しかし,ピカートは「言葉がはじめて,愛を限界づけられたもの,明瞭なものにするのである。そして,愛に対して,愛にふさわしいものを与えるのだ。言葉によってはじめて,愛は具体的なものとなる,(中略)言葉によってはじめて,愛は真理のうえに据えられるのである」,とも述べています11)
日本全体が「無関心」であってもいいという風潮を受け入れるエートスがあることを認識させられるひとつの断面図をみてみました。
主イエス・キリストは,「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが,その一羽さえ,あなたがたの父のお許しがなければ,地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから,恐れるな。あなたがたは,たくさんの雀よりもはるかにまさっている」,と言われました(マタイ 20:29-31)。
人間側の方で愛が冷えていても,人間に関心をもつ方がおられて,人間を「愛する」方であるなら,キリスト教会も隣人を「愛する」存在となっているでしょうか。

 c. キリスト教会の愛は深いか
筆者は今でこそ神戸国際キリスト教会の牧師をさせていただいており,こうしてキリスト教会の牧師として講壇から語るようになっています。しかし,かつては教会荒らしのひどい輩であることをさきほど述べました。エホバの証人は,千年王国がすぐにでも到来するかのように,仕事を転職し,家から家へ戸別伝道を優先するようにしています。「家ごとに」(ギリシア語 カト オイコン)を「家から家へ」と曲解して戸別訪問をすすめます(使徒 2:46,5:42,20:20)。

岩村カヨ子 家族で伝道場面 Kayoko Iwamura

もうすぐ,キリストが治める王国が来るのだから,今の世の中が魅力あるように思わせるボランティアなどもってのほかでした。なぜなら証人はハルマゲドン以降の地上の楽園を待ち望むからです。現世をよくする運動はサタンを喜ばせる罠だと思い込んでいます。自然災害などで被害があっても自分たちだけの王国会館や信者の生活に惜しみない支援をしています。相互扶助の精神はしっかりしています。しかし,他者には無関心なのです。
一方,キリスト教会は世に仕えています。今回,ここ宮城学院女子大学で話す機会が与えられたことを聞かれたおひとりの先生は,神戸国際支縁機構の存在,活動を調べて,維持会費をすぐに振り込んでくださいました。寄附文化のない国で,迅速な対応に頭が下がります。松尾芭蕉[1644-1694]は,1694年,大阪で「秋深き隣は何をするひとぞ」,と詠みました。日本人の他者にあまり関わらない風潮があることも事実です。ご近所,同じ集落,コミュニティに関心をもつ日本に変える必要があると思われていることでしょう。変革の原動力はキリスト教会のもつ使命のひとつとみなさんは考えておられ,行動なさっておられると信じます。寄附文化がないと言われる日本でも,キリスト教会など宗教界は積極的に寄附する点で際立っています。日本1世帯当たり年平均の寄付額は2013年が約2400円。調査対象の年に寄付をした個人は英米ともに全体の6割弱で日本は3割弱です。寄付をした人の平均額は米国が約17万円,英国が約4万円,日本は約1万4千円(震災関連を除く)と金額にも開きがありました。日本でも2012年の個人寄附の分野別割合のトップは,宗教が33%です。緊急災害支援の9.6%をはるかに上回っています12)
こういう場面を想像してみてください。あなたがその場にいます。目の前の池で溺れている人がいます。ばたばたしています。どんどん沈んでいきます。お会いしたこともない方です。どうなさいますか。「助けてくれ!」と叫ばなかったから,自分は何もしなかったと後でおっしゃいますか。自分がかなづちであっても,だれかを呼ぶとか,棒きれでも放り込むとか,必死で行動なさるでしょうか。
それともただ見ているだけですか。それとも知らんぷりをしてその場をそそくさと立ち去りますか。震災で親を亡くした子どもたち,仮設住宅で貯金もほとんどなく,新しい家に移り住みたくてもとても毎月5万円近くの家賃も払えない人たち,独居で,頼る隣人がいない人たちは,ここ宮城県だけでなく,熊本県,大分県でもおられます。ちなみに熊本県益城町では昨年の4月14日以降,37人(直接死20人,震災関連死17人)がなくなっています。西原町では8人(直接死5人,震災関連死3人)が亡くなられています。直接命をついえた数より,その後,生きていくことが出来なくなっている数が増えている現実をどうお考えになられますか13)

 (2) 疑う者は救われる
 a. 二者択一への疑いから聖書観は始まる
神戸国際大学の近藤剛教授は,日本聖書協会主催の「聖書セミナー」で神学者パウル・ティリッヒ[1886-1965]の「懐疑の義認」について語られました。「信仰は懐疑の『否』と懐疑の不安を除去しない」と言われました。人間が持ち合わせている本質的な疑い,「こんなに悪が許されているのに,神はいるのか」などの「疑い」についてティリッヒは「懐疑者の義認」と考えたとのことです。「疑う」者も罪人と同じように義とされる(Rechtfertigung des Zweiflers)と解釈したのです14)。筆者は「疑い」の発露が良心に基づくか,悪意に基づくかによって,ふるわれると考えます。イエスは「信仰の薄い者よ,なぜ疑ったのか」,と弟子たちに叱られる場合もあったからです(マタイ 14:31)。
共謀罪が今週中に成立しそうな気配です。誰に対しても「疑い」の目でテロリスト予備軍として捜査対象にすれば日本は救われるなどと言う視点は倒錯行為です。
2016年11月19日,筆者たちは第69次東北ボランティアの際,いつもと異なり,空手道場に寝袋を敷いて寝ないで,駐車場で休んでいました。早朝5時46分,10人乗りハイエースが揺れ出したのです。暗い朝,コンビニの店員たちが血相を変えて,駐車場に飛び出してきました。
2011年3月21日に,石巻専修大学に物資を運んでいた時,余震で山鳴りがしていました。スタッフたちは相撲力士たちのように蹲踞(そんきょ)の格好で踏ん張っていました15)。眠っていた村上裕隆君をたたき起こして,「津波だ」とすぐにラジオのスイッチを入れました。すると宮城県沿岸に津波注意報が出ています。車いすを積んでいるので,石巻市で一番被害の出た渡波に行くために出かけました。10人乗りハイエースは車いすもあり,独居で身動きができない高齢者に役立てばと考えたのです。
東日本大震災時,渡波は約2万1千人の人口の内,90%が避難しましたが,約600名が津波にのまれました。行方不明者数は正確にはだれもわかっていません。その時,約5年と3ヶ月前のことです。雪の降る寒い中,四方から襲う津波の道を目撃していました。一回沖へ引き戻したら,また家,船,水産の工場をバキバキと轟音を立てながら,繰り返し,すべてを飲み尽くす黒い波。生き残った住民は,夜寝静まった時,聞こえてくる波の音にトラウマがあります。「夜,海の音さ,聞くとおっかなくちゃ,眠れねぇべー」という証言を傾聴ボランティアで何度も聞きました。
その朝,道路はまだ渋滞はなく,平素30分以上かかる最大の犠牲者が出た海岸まで10分で到着しました。周囲は明るくなっています。ほぼ毎月通っている渡波3丁目はただならぬ雰囲気です。「海から離れてください」と津波避難注意報が沿岸区域に繰り返し流れています。午前7時4分。石巻市牡鹿半島の鮎川,津波30㎝。「高波注意」と「津波注意」は根本的に異なります。海上が波浪のための高波とは異なり,津波は海の底からすべてを呑み込んで上陸します。1960年のチリ地震[1960年5月]は,東京の築地に22時間59分後に上陸しました。一日,24時間で津波はチリから東京の築地に到達しました。新幹線より速い時速750キロということになります。自動車でも逃げ切れません。近くに気付いた時にはもう逃げ切れません。車の中ですと,水圧のため脱出ができません。2011年,東日本大震災の最大の被災地は宮城県石巻市渡波と筆者は確信しています。なぜなら東北三県で面積当たり最も犠牲者が多く出た渡波の松原町などを含んでいるからです。遡上高[そじょうこう] 海岸から進入してきた津波が,陸上を這(は)い上がった最高地点の高さについてもあなどれません。一般に言われている岩手県宮古市が最高ではない。宮城県石巻市の笠貝島(無人島)が最大43.3メートルです16)
「津波が来ます。皆さん避難してください」と大音量なのと対照的に渡波はひっそりしています。機構が被災地にいることを知ったメディアから問い合わせが来ます。

画像 17)『神戸新聞』夕刊(2016年11月20日付)。

『神戸新聞』夕刊(2016年11月20日付)

漁ボランティアで仕えた牡蠣(かき)の工場の漁師達は殺気立っています。「あおら,あそこの杭,いぎなし いずい(なんか変)」「おっかね。おどげでねぇ。しぇんしぇ わらわんどここから出て行けっちゃ」と語気強くいわれました。「んだねぇ」,と答えます。息をはずませて漁ボランティアで仕えた漁場に来たものの肩すかしです。逃げようとしない住民たちがいたのです。
午前8時21分。宮城県石巻市渡波,津波注意報から「津波警報」に変更。海の潮の流れが速くなっています。津波の影響で養殖の杭が沈みだしました。尋常でない空気が海の男たちの顔の眉間に緊張が走っています。「海から離れてください」から「沿岸部から離れよ」にアナウンスの調子が変わりました。

画像 『石巻かほく』(2017年3月8日付)18)

『石巻かほく』(2017年3月8日付)

2016年11月20日,石巻市沿岸部の人々は逃げようとしませんでした。なぜ逃げませんでしたか。ひとつに,自分は大丈夫だと変な過信があります。自然災害の時,「自分ごと」だと危険を察知し,逃げねばなりません。ところがニュースなどの情報を聞いて,専門家の分析を聞いてから行動しようとします。“怖いのはパニックではなく,パニックを恐れる人たちが引き起こす情報隠し”です19)。政治家,専門家はパニックに陥らないために,危険な真実を住民に伝えなかったという教訓をフクシマのメルトダウン隠しからも肝に銘じておくべきです。二番目に,災害時は「空気を読まない」「忖度 Emppathic Understanding (共感的な理解)しない」姿勢が生死を決します。周りの人に同調しすぎて逃げ遅れてしまうからです20)。筆者は,もうひとつの理由をあげたいです。三番目に,もう逃げることよりも,「諦観」(たいかん)=「あきらめ」の空気を吐き出さねばならないことです。あの時,助かったのは運がよかったと,当初思っていても,自分だけが生き残ったことに自責の念があるのでしょうか。震災後,家には非常時の防災キットも備えられていますが,生きるか死ぬかは個人の努力でもどうすることもできないという悟りきった境地です。生き延びてもいいし,もう死んでもいいというあきらめです。たとえ生き残っても,3.11で死んだ友と比較して「よく生きた」からという満足感があります。一方,たとえ死んでも,「もうこれ以上楽しい人生はないっべ」とあきらめがあります。「生きるか,死ぬか」のどちらがよいか,二つにひとつを迫る立場にいることを想像してみてください。せっかく生き延びる機会があるにもかかわらず,ふたつにひとつの選択では実行力に乏しくなります。

「もしハイエースに乗ればいのちは助かります」は,逆は「もしハイエースに乗らなければ,いのちはありません」という例を考えましょう。ちなみに,説得とは,相手のアイデアを壊すところから始めなければなりません21)
答えは二者択一ではないのです。「いのちはハイエースに乗れば助かります」とは必ずしも言い切れないのです。ハイエースに乗ることによって,渋滞に巻きこまれていのちを失う可能性もあるのです。AかBの二元論で考える習慣では急場を乗り越えられません22)。黒か白,陰か陽,光か闇,神かサタンかといった二元論の選びでは諦観の日本人は決断できないのです。
「自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが,ふさわしいかどうか」の「判断する」(ギリシア語 クリノーはa reasoned statement or augument〈識別する〉の意]です(Ⅰコリント 11:13)。「クリノー」は『新改訳』フィリピ 1章9節で,「わたしは,こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて[識別力によって『新改訳』],あなたがたの愛がますます豊かになり」,と訳されています。文脈の16節には,聖書のものの見方,考え方,発想は「二元論ではないことがよくわかります。「一方は,わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って,愛の動機からそうするのですが」,と二者択一のどちらかという一義的な視座を否定されています。つまり聖書的思考とはAもBも両方を「疑う」から出発します。
どちらを選択するのかという揺れは悪魔からもたらされます。悪魔は外から迫害によって脅し,誘惑によって人を惑わす存在だと思っているキリスト者を問わず,多いでしょう。悪魔はギリシア語でディアボロス[英語デビルの語源]です。ディアボロスは前置詞の  ディア〈二つ〉+ バロー〈ぶつかる,突進する〉の合成語です。
悪魔,つまりサタンは特定の場所から人間に働きかけるのでしょうか。角を生やし,黒いマントを着て,しっぽがある姿を連想する人々もいます。ペルガモンには「サタンの王座がある」とは特定の場所から影響力があるにちがいないと考える人もいます(黙示録 2:13)。しかし,サタンは,「この世の神」とパウロが述べるように,いかなる場所,状況,時間において「人々の心の目をくらましトュフロー〈思いをくらまし『口語訳』〉),神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないように」しているのです(Ⅱコリント 4:4)。したがって,特定の場所から見張っているのではありません。むしろ私たちの心の中で,AとBの相反する考えが「ぶつかる」状態こそ悪魔が暗躍していることに気づかねばなりません。青酸カリの入った飲物を人から勧められた時,「飲むか」それとも「飲まないか」について,まったく疑わずに,飲み干したら危険です。
だからこそ,AとBの両方を疑うことからキリスト者は自問します。「人間より神に従わねばならない」場面において,「人間」と「神」の二項を天秤にかけることはしません。日本基督教学会の水垣渉元理事長は,“初めは二つだけから成り立っていたように見えた関係の中から,第三の最も重要なものが生じました。二項関係は三項関係になるべくしてなったのです。救いの歴史は,創造の二項関係からイエス・キリストが中心になる三項関係へと発展していく歴史になります。それは「救済史」と呼ばれます”,と論じられます。水垣先生はセーレン・キェルケゴール[1813-1855] の「関係がそれ自身に関係する」こそが聖書の基本的な考え方を簡潔に哲学的に表現したと説かれました。マルコ 10章6節に,「神は人を男と女とにお造りになった」に「男」と「女」が出てきます。文脈の9節には,「神が結び合わせてくださったものを,人は離してはならない」に「結び合わせる」(スズューグヌミ〈スン「共に」+ ズューグヌミ「繋ぐ」〉)とは「同じくびき[ズューゴス]につなぐ」の意味になります。神は男と女を創造されただけでなく,同時に両者の間にくびき,きずなという関係をも創造されたのです。東洋的な「縁」です23)。したがって,ボランティア道は二項の選択から第三の選択肢である垂直の介入の力学が働きます24)。青酸カリの入ったジュースを勧められるとき,第三の選択肢とは何でしょうか。無二の親友,忠実な部下,信頼できる家族であったとしても,「人間に頼るのをやめよ 鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか」,という冷徹な判断を求められます(イザヤ 2:22)。人に後ろ指を指されるような生き方をしてこなかっと自負するなら,自己を「疑う」資質について未熟なのです。自己義を誇ってはならないのです。「汝自身を知れ」,とソクラテス[紀元前469頃-399]が問う心的契機に無辜すぎるのです。たとえば,筆者が大きなカバンを携えて,JR朝霧駅のプラットホームに立つとしましょう。黄色の線があり,線路側には身を乗り出さないように安全を考えます。一番前に並び,カバンだけをすこし黄色のラインより電車側に近づけて置きます。そこへ身なりのよい女性がさっさと歩いて,プラットホームの線路側を通り過ぎようとします。彼女は内心,こんなところにカバンなんか置いて邪魔じゃないの,と目が語っています。筆者はだれも歩いたりしないゾーンだから大丈夫と思い込んでいます。双方共に自分は義[正しい]と思い込んでいます。「無知な者は自分の道を正しいと見なす。知恵ある人は勧めに聞き従う」,と箴言にあるとおりです(箴言 12:15)。自分は「正しい」( ヤシャール〈平らな,正しい,正直な,実直な,まっすぐな〉の意)と信じきっています。このように自己義は洋の東西を問わず,だれしもが思う事柄です。人それぞれ複数の正義があるのです。そこで自分はグラスを手渡す人を裏切ったことはないだろうか,人生の闇,地獄を見せるように仕向けたことはなかったか,恨み辛みを与えたことはないか,という自己に対するクリティック[批判,疑い,総括]を瞬時にする冷静さです。『我と汝・対話』の著者マルティン・ブーバー[1878-1965]が,「初めに関係があって私という存在をつくっているとするもので,関係を大切にした自己だ」があってこそ,差し出された杯を平安のうちに口に含むことができます。「というのは,神の言葉は生きており,力を発揮し,どんな両刃の剣よりも鋭く,精神と霊,関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して,心の思いや考えを見分けることができるからです」の「精神と霊,関節と骨髄」に神が  ディイクネオマイ「貫いて入る,刺し通す」,つまり垂直的に「介入」(ドイツ語 eingreifen)してくださるのです(へブライ 4:12)。つまり, エンスーメースィス〈感情の起伏がある心情〉と  エンノーイア〈理性による智〉の二極の揺れに惑わされない判別 クリティコス〈見分ける,識別する能力〉を発揮できるのです。“智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。”,と夏目漱石[1867-1916]が『草枕』と述べる葛藤から解放され,勝利することができるのです。したがって,三項関係があってこそ,「疑いながら食べる人は,確信に基づいて行動していないので,罪に定められます。確信に基づいていないことは,すべて罪なのです」,と確信に基づいて行動することが可能になります(ローマ 14:23)。
宮城県石巻市渡波において,2016年11月22日10時53分「警戒」から「注意」に戻りました。“宮城県の注意警戒事項 東部では高波3メートルに注意”と危険姓が去り,筆者たちの緊張も和らぎました。
「防潮堤」について考えてみましょう。「防潮堤があればいのちは助かりますか」それとも「防潮堤がなければ死にますか」。
津波が岩手県宮古市田老町地区を襲う前,田老町は世界で最も津波から守られていると国の内外で有名でした。海外から視察,見学,研究者が訪れ,国,地元,工学者たちは胸を張って自慢していました。フクシマ原発と同じと同じように安心しきっていました。悲劇でした。逃げ遅れた住民は犠牲になられました。「防潮堤があったから死なれることになりました」。沖の津波も見えません。海岸に新幹線以上の速さで押し寄せる津波の音も聞こえません。なによりも「防潮堤があればいのちは助かる」を盲信していました25)

季刊誌『支縁』No.10(4頁 神戸国際支縁機構発行 2015年2月) Pastor Yoshio Iwamura

 b.「信じる者は救われません」
 聖書の次なる言葉をさんざん聞かされている信者はお気の毒としかいいようがありません。「いささかも疑わず,信仰をもって願いなさい。疑う者は,風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています」(ヤコブ 1:6)。教会,神学校,教団,教派の組織の指導者が語ることに疑義を挟んではならないのです。万一の時も「神さまを信じていれば」,港の岸壁に停泊する大きな船も錨をおろします。台風,暴風雨,しけなどによって船自身が沖に流されてしまうことがないように,信者も固い信仰によって,自分たちの群れにつながっていなさいと聞かされます。文脈の8節で,ぶれやすい信仰は「心が定まらず,生き方全体に安定を欠く人です」と注意が喚起されています。『新改訳』では,「二心のある人」と訳しています。ディプシュコス「デュオ+  プシュケー〈どっちつかずの,ぐらついた〉」信仰などあってはいけないと教えられてきたのです。
たとえば,「ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも,神に従わなくてはなりません」(使徒 5:29)と。一方,宗教組織の中では,聖書の真理よりも,言われた通りに「人間に従う」者が忠実として誉められるのです。何も疑わない鳩のような純粋な信仰の信者ばかりだと霊的指導者はやりやすいのです。「筆者たちは,あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく,あなたがたの喜びのために働く協力者です」とたたみ込みます(Ⅱコリント 1:24)。そして,君臨しています「主人として支配する」[ギリシア語 キュリエウオー〈~を支配する〉]のです。位階制,求心力,教導権を握る指導者がいてはなりません。「この者どもは,心を一つにしており,自分たちの力と権威を獣にゆだねる」ように金太郎飴のような画一的な断面図を誇ります(黙示録 17:13)。トップダウンですから,即決で重要な案件も決まります。しかし,付いていってはならないのです。
聖書には,「指導者たちの言うことを聞き入れ,服従しなさい」(へブライ 13:17),と「服従」についても述べられています。文脈の7節に「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを,思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て,その信仰を見倣いなさい」の無批判の従順さは危険です。「彼らの生涯の終わりをしっかり見て,その信仰を見倣いなさい」の「終わり」[ギリシア語 エクバスィス〈結末〉の意]に倣うのであって,それは盲従ではありません。殉教を辞さない模範こそ「従う」生き方になります。歴史学者海老沢有道[1910-1992]はキリシタンがなぜ殉教をいとわなかったかについて注目しています。“構成員である信徒は,使徒・教父・証聖者らの教説・信仰,その生活態度に倣い,連綿と伝統・伝承を受け継ぎ,殉教者の血が奉教人の種子となって発展してきた超歴史的な公同の教会の一員であり,兄弟姉妹なのである”,と「生活態度,殉教者の血」が従う基準であることをつまびらかにしています26)

c. 二者択一から第三の選択へ 筆者の聖書観
 「神に従う」のか「目に見える『人』に従うかの選択をしません。どちらが正しいかではなく,第三の選択肢を選ばねばなりません。ヤコブ1章5節で,「願い求め」「ディアクリノー」〈吟味して判する〉姿勢こそが聖書的考え方になります27)。フィリピ 1章9節で,「わたしは,こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて[識別力によって『新改訳』],あなたがたの愛がますます豊かになり」,と二つの選択から,もっと鋭い聖書観を研ぎ澄ますのです。
文脈で,「一方は,わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って,愛の動機からそうするのですが」,と「弁明する」[ギリシア語 アポロギア〈言い開き,弁護〉考え方を身につけるように促されます(フィリピ 1:7,16)。「神」か「人間」かのどちらに従うかという二元論には落とし穴に陥る場合もあります。たとえば,ギリシア人も人間を「神」にしていました。日本も天皇制度によって現人「神」として戦時下,キリスト教会は 礼拝の中で君が代斉唱,宮城遥拝が行われました。従う対象を人間か神のどちらかと無思慮に判断をしてはなりません。どちらが正しいかではなく,何が正しいかを見抜くのです。哲学で言えば,正反合の弁証法的思惟が近道です。何が正しいか,「善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された,一人前の大人のためのものです」(へブライ 5:14)。AかBのどちらかを選択するように迫られた時,「見分ける感覚」(ギリシア語 エイスセーテーリオン〈知覚・感知する機能〉)があってはじめて「大人」[ギリシア語 テレイオス〈充分成長した,成人した,円熟の極に達した〉の意]の仲間入りができます。そのためには,AとBの両方を「疑う」力が必要です。すなわち正解はAでもなければ,Bでもない判断を瞬時にできる発想が求められます。次に,答えがAでもなければBでもないなら,何が答えですか。すべての存在を設計し,保持し,完成する超越論的存在の視座に周波数を合わせねばなりません。解釈上の混乱,聖書の不明,謎が出てきたら,当然設計者自身の説明が最終的な突破口となります。「どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです」,という設計者のことばにより解釈するのです(へブライ 3:8)。つまり聖書は聖書によって解釈するしかありません。設計者を無視して,大工が設計図を調べずに体験,技術,勘で主張するように,釈義書,出版物,牧師に電話して説明してもらう行程はいりません。なぜなら設計者のことばはむずかしいものではないからです。「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく,遠く及ばぬものでもない」の「難しすぎる」(へブライ語al;P;パーラー〈驚異,難解,摩可不思議〉の意)ではないと設計者自身が保障しています(申命記 30:11)。そうであるにもかかわらず,人間である集団的指導者の群れはコンスタンティヌス帝[コンスタンティーヌ1世 280頃-337年]がキリスト教を国教にして以来,聖書がむずかしい書物だと思い込ませてしまったのです。聖書の理解は教義を定める教会の教導権抜きには勝手に判断してはいけなかったのです。チャンネル,教導権を有する司教職,教義・教理,統治体から教えをひもといてもらわないとわからないようにされてしまいました。「手引きしてくれる人がなければ,どうして分かりましょう」,と道案内がないと,説教者自身も確信をもって講壇から語れない有り様です(使徒 8:31)。キリストを信じる集まり「エクレーシア」を「教会」と称することからも,教会は神学論争,禅問答のようなむずかしい教えを説くイメージを与えてしまうようようになりました。しかし,使徒言行録 8章の文脈はイザヤ書のメシアとはだれか,つまり聖書全体の統一した主題はだれかについてフィリポはエチオピア人に示しているにすぎません。救い主について学校などに行って学ぶのではありません。聖書の勉強と言われたにもかかわらず,組織の取り決め,教会政治,伝道方法などを教え込まれます。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて,聖書を研究している。ところが,聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに,あなたたちは,命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」,とキリスト自身が痛烈に組織崇拝を批判されています(ヨハネ 5:39,40)。キリストは学習して学ぶのではありません。出会いです。「さあ,見に来てください」( デューテ イデテCome and see),とサマリアの女性は村の人々に言いました(ヨハネ 4:29)。キリストと出会えば,AかBの両方が答でないなら,何が正しいか,パラクレートスが導きます。「いつもあなたがたの内には,御子から注がれた油がありますから,だれからも教えを受ける必要がありません」(ギリシア語cri,wクリオーの名詞形〈イエスを信じる者に神の霊を与える〉Ⅱコリント 1:21参照)( Ⅰヨハネ 2:27)。

では,ここでご一緒に考えたどちらが正しいかではなく,第三の選択肢を選ぶ考え方ができたかどうか,試験をさせていただきます。

今から,聖書の一箇所をお読みします。イエスの教えに対して,みなさんはどちらに従われますか。
「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか,一方に親しんで他方を軽んじるか,どちらかである。あなたがたは,神と富とに仕えることはできない」(ルカ 16:13,マタイ 6:24)。
聴衆のみなさんは,「信じる者は救われない」と聞かれて,どのように判断するか,思索なさったことと信じます。では,皆さんは,「神」と「富」のどちらに仕えられますか。
もしここで,どなたかが岩村と同じように,「富」「酒」「女」とは縁もなく生きていこうとなさいますか。「神」だけに仕えますと即答なさるとすると,国の内外で,弱者に仕えるボランティア道を共に連帯することはできなくなります。
お金は貪欲に求められる世の神さまです。チャリンの前にはだれでもひざまづきます。キリスト者は二元論で,霊的なことは良いが,富は悪と考える傾向があります。聖大アントニオス[251頃-356]の頃から修道士生活が始まります。中世になると,「キリスト教は……人と自然の二元論をうちたてただけではなく,人が自分のために自然を搾取することが神の意志であると主張した」と自然をこわしてきた,と歴史学者のリン・ホワイト[1907-1987]はキリスト教を批判します28)
物質,富,財産は貪欲のとりこになるから徹底的に拒否する姿勢が修道士の生き方です。しかし,二元論ではなく,平衡の取れた見方をしていないと仙人の生活を求められてしまいます。
「むなしいもの 偽りの言葉を わたしから遠ざけてください。貧しくもせず,金持ちにもせず わたしのために定められたパンで わたしを養ってください」のように「貧しくもせず」という道を願う方が聖書的であります(箴言 30:8)。
文脈から判断することは有益です。「そこで,わたしは言っておくが,不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば,金がなくなったとき,あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」には「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と富の奴隷となるのではなく,神からの祝福である「富」(mamwna/j マモナ アラム語から派生)を有効に用いることができます(ルカ 16:9)。マモニズム(金銭至上主義)に陥らず,ql,xeヘッレク〈分け前,受ける自分の分,報い〉で満足するのです(コヘレト 4:9,9:9,Ⅰテモテ 6:6,8 『仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)』にある「少欲知足(欲を少なくして足ることを知る)」も聖書と共通しています29)
大学を卒業なさっても,生活のあらゆる場で引き続き訓練なさってください。オレオレ詐欺にもひっかかりません。信じますか。つまり,騙す側だけを疑うのではありません。騙される自分をも疑う冷静さを絶えず培ってください。たとえば,試験の時,自分の答案用紙は正しいと思ってすぐに出したりはしませんね。「どこか間違っているにちがいない」と,何度も疑ってかかる姿勢が求められます。今日,みなさんにお配りしようとする筆者の完全原稿も客観的に見直す,時間をおいて読み直すとまちがいがいくらでも出てくるものです。「疑う」者は救われるのです。大学受験もそうですね。受験生の答案の平均点数はさほど変わりません。10点,15点のちがいで合否が決まります。ケアレスミスをなくすために自分を疑う力が必要です。「愚かな者としてではなく,賢い者として,細かく気を配って歩みなさい」の「細かく気を配って」(avkribw/jアクリボース「〈厳密に( 綿密に,注意深く)の意〉」の注意深さを求められます(エフェソス 5:15)。「ここのユダヤ人たちは,テサロニケのユダヤ人よりも素直で,非常に熱心に御言葉を受け入れ,そのとおりかどうか,毎日,聖書を調べていた」,とたといパウロが講壇から語ったことであっても,「調べる]( avnakri,nwアナクリノー 〈問いただす,吟味する,精査する,《批判の対象にして》評価を下す〉)のです。ベレアのキリスト者は徹底して吟味したのです(使徒 17:11)。パウロだからと言って,うのみにはしませんでした 。
神も仏もない時代に,「神さまはおられるなら,あんなテロによってシリアなどの子どもたちは悲惨な憂き目に遭わなくてすむはずだ」という「疑い」があってこそ,はじめて神に挑戦するのです。無関心ならばいつまでたっても,キリストとの出会いはありませんでしょう。

(3) 石の叫びに対して,「しゃべくりより実践」
 a. 石の叫び
宗教改革者マルティン・ルター[1483-1546]の生誕500年を祝う記念行事があちらこちらで見受けられます。プロテスタント教会では,「ヤコブの手紙」はほとんど取り上げられません。信仰義認が強調されているからです30)
ルターはパウロの正統的信仰を損なう「藁(わら)の書簡」と揶揄し,「読む価値なし」と退けました31)。ヤコブ 2章2~4節 「あなたがたの集まりに,金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来,また,汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて,『あなたは,こちらの席にお掛けください』と言い,貧しい人には,『あなたは,そこに立っているか,わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら,あなたがたは,自分たちの中で差別をし,誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」,と。
日本聖書協会発行の“SOWER”誌でもとりあげられた岩井健作牧師は,「信仰義認」を教義として固定化した福音主義神学の在り方への批判をされました(クリノー)32)。ルター生誕500年祭の今こそ,藁書簡がいいのか,わるいのかという二元論から脱却する時です。「信仰」と「行い」,「律法」と「福音」,「旧約」と「新約」のどちらがふさわしいかという問いに対しても第三の選択肢を洞察する円熟さが伴うように願いたいものです。新約聖書学者の田川建三先生[1935-]は,“信仰義認をふりまわして実践を鼻であしらい,「主よ,主よ」とやたらと敬虔ぶって叫んで「信仰告白」に固執するけれども,実際には「不法を『行なう者』でしかない”と手厳しく福音主義を裁いています(クリノー)33)
「貧しい人」(ギリシア語ptwco,jプトーコス〈語源ptwvsswプトーススオー 恐れてちぢこまる〉「乞食のような,窮乏している,困窮している,貧弱な」の意)は新約には37回出ています。旧約では,wn”[‘アーナーヴが25回出ています。「貧しい人」とは“物質的に何も所有せず,物乞いするより他に生活手段を持たない極貧の者”,と関西学院の嶺重淑教授は定義しています34)。生活ができない絶対的貧困,平均所得と比較しての相対的貧困があります。
モーセはなぜ選ばれましたか。民数記 12章3節 「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」の「謙遜」(ヘブライ語wn”[‘アーナーヴ〈貧しい〉の意 OTに25回)だったからと長年聖書に親しんでいるキリスト者は答えます。どういうわけかアーナーヴの翻訳は「謙遜な,柔和な」になっています。宗教組織が大きくなってきますと,従順な信者ばかりの方が統治しやすくなります。指導者に逆らわず,どんな無茶なことを決定しても黙ってついてくる羊ばっかりだと助かります。十字軍,日本の戦前,戦時下の朝鮮人差別,ルターのミュンツアー弾圧などに対しても沈黙する謙遜さがいつの時代も求められてきたのではないでしょうか。しかし,アーナーヴは「貧しい」です。神はいつの時代も「貧しい」者を選んで来られました。ルカは,金持ちとラザロを16章19節から31節でとりあげました。「貧しい人々は,幸いである」と貧者でなければ幸せになれないアイロニーを語りました(ルカ 6:20)。パウロは神が身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれることを明らかにしました(Ⅰコリント 1:26-28)。
ヤコブ書の文脈5節には,「わたしの愛する兄弟たち,よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで,信仰に富ませ,御自身を愛する者に約束された国を,受け継ぐ者となさったではありませんか」,と。神は,貧者(つまり弱者)を「あえて選んで」(ギリシア語evkle,gowエクレゴオー〈選び出す,選び取る,自分用に引き抜く〉の意)が選びの基準となっていました。一方,世の中では,会社,官僚,学会では東京大学を出ているとか,受付には美人をおくというような図式ができあがっています。『東大生の受験マニュアル』など中身ではなく,タイトルで良く売れる本になったりします。
キリスト教界のみならず,仏教界でもエリートの見解が用いられる陳腐な傾向があります。
日本の被災地の出来事や,証言の一つ一つは,「これでも心が痛まないのか」と私たちの胸に突き刺さる叫びです。世の多くの人々から無視されている路傍の「石の叫び」です。「石の叫び」は今も世界各地に聞こえます。
2017年3月に訪問したバヌアツ報告の体験をお分かちいたします35)

画像 バヌアツ国ポートビラ市貧民窟ブラックサンド

バヌアツ国 貧民窟ブラックサンド 2017年4月4日 Pastor Yoshio Iwamura

南太平洋上に浮かぶ小さなバヌアツ共和国は,2015年3月のサイクロンにより,人口の約3分の2にあたる推定16万6,000人(内,子ども8万2,000人)が被災しました。神戸国際支縁機構はそこへ訪れ,現地の人々と濃密な交流をしながら,「石の叫び」を聞きました。「私たちは人間です,生きていきたい,あきらめていない」という叫びです。神戸国際支縁機構は現在,バヌアツの子どもたちの施設建設や日本の里親からのバヌアツの孤児たちへの教育費の働きに関わっています。
「日本からの教育費を使って学校へ行きたいですか」,と言うと,子どもたちは飛び上がって喜びました。バヌアツの子どもたちは物質的には決して豊かではありません。けれども,明るく,機会さえあれば,何にでも取り組む元気な子どもたちです。筆者は,子どもたちの明るい笑顔に希望を感じました。ます。少し古い資料になりますけれど,東大生の親の世帯年収は2010年当時,世帯年収 950万円以上の家庭が51.8%に上りました。1000万円並の家庭が半分以上ということになります36)。2012年の全給与所得者で年収300万円以下の割合は41.0%です37)。私立中高一貫校,中学受験用学習塾,朝食摂取などの規則正しい生活が一流大学への道となっています。まさに難関校は現代のバベルの塔です。日本では,世帯所得200万円未満の世帯を低所得層としています。ワーキングプアの年収は,200万円以下と一般的に言われています。賃金構造基本統計調査から計算してみたところ収入が200万円以下の人口は約1069万人もいます。2012年の全給与所得者で年収300万円以下の割合は41.0%。派遣社員の年収は,賃金構造基本統計調査によると,200万円以下の人が77%です。平均の月給料が19万3000円となっています38)。労働市場の規制緩和・自由化による正社員の減少,パート・アルバイト・非正規社員などの増員は政・官・財・学のバラ色のヴィジョンの嘘をそのまま物語っています。こういう現実の中で抑圧されている人々の「これ以上,生きていられない!」という呻きと「石の叫び」が聞こえます。こういう「貧しさ」を官民一体となって放置し,「一億総活躍社会」を錦の御旗として掲げ,自己責任論が大手を振って歩き,人の痛みに無感覚な空気が徐々に漂いつつあります。 2016年10月1日,「ボランテイア・福祉・宗教」で対話集会で筆者はトークセッションの機会があり,小稿を準備した際,子どもの貧困について 国際連合人権高等弁務官であるルイーズ・アルブール氏は,「貧困は,人権侵害の結果であり,人権侵害を生み出す原因である」,の言葉を引用しました39)
日本の子どもの貧困率は16.3%(2014年発表)で,過去最高を更新しました。ひとり親など大人1人の世帯に限ると,54.6%で,先進国で最悪の水準です40)。母子家庭は全国に123万世帯,二人世帯の母子家庭のうち年収が180万円以下の貧困家庭は66%です。そうした生活苦の石の叫びに無関心でいいのでしょうか。
経済的な理由で過去1年間,必要な食料を買えないことがあった沖縄県内の子育て世帯は,ひとり親世帯で43%,両親がいる世帯でも25%に上ります,子どもの3人に1人が貧困状態です41)
一方,格差構造を温存したい御仁には見えない希望がバヌアツ国ポートビラ市の貧民窟ブラックサンドにあります。子どもたちの可能性,無限の情熱,凛としたモラルこそ行き詰まった日本のコンパスです。針を山積みになった干し草に落としたら,どんなに精巧な技術で探索しても見つけ出すのは困難です。磁石があれば簡単です。TV報道,マスコミの紙面,体制を温存させたい人々は,社会の断面の分析は机の上の知力による見当外れの学者の見解に依存します。護送船団という組織力により,維持することに躍起です。記者たちの体感,人々の息づかいは,現場でなければ伝わらないことを伝えてくれます。しかし,学者にはその視座が欠けているのです。磁力がないのです。したがって,うめきに対して,「貧しさ」を知らない学者の知性を繰り返しマインドコントロールされていくうちに,人の痛みに無感覚な人間になっていく道に陥ってしまいました。文明,技術,グローバリゼーションは被災,自然災害,貧困についても無関心という思考回路が君臨してしまいました。

画像 アマトリーチェ
⇒ 第1次イタリア・ボランティア訪問報告

セルジオ・ピロッズィ・アマトリーチェ市長と会見 2017年6月8日 Pastor Yoshio Iwamura

先週,2017年6月8日,イタリア中部で昨年地震があったアマトリーチェに行ってきました。2700人いた美しい町は荒廃に帰し,学校や病院,そして,人々の魂のよりどころでもあるサンタマリア大聖堂も全壊でした。298人が犠牲になり,住民の多くは住むところがなく,死の町と化していました。そこにも「石の叫び」が聞かれました。

画像 ラクイラ訪問 2017年6月9日。

ラクイラ学生寮 2017年6月9日

8年前,2009年4月6日3時32分,イタリア中部の古都ラクイラを襲ったイタリア最大の地震マグニチュード6.3。死者309名(伊ANSA通信) 家屋損壊数千を越えました。いまだに爪痕が残っています。2009年3月31日,民を安心させるため「安全宣言」が放映されました。安全宣言に名を連ねた地震予知委員会の7人の学者たちは有罪の実刑判決が言い渡されました42)。こういう学者たちこそ,地震の被災者たちの「石の叫び」に耳を傾けるべきでありましょう。
一方,否定の論理をもたない日本では,フクシマ原発の安全神話を繰り返した学者,メディアに一切,おとがめなしではありませんか43)。フクシマ第一原発のメルトダウン以降,福島県立医科大学副学長に文科省から依頼された山下俊一[しゅんいち 1952-]という浦上の隠れキリシタンの子孫で被曝2世がおられます。フクシマの被災地では,「ヤマシタ」「ダマシタ」と言われたりします44)。なぜなら「住民などが急性障害になるような高い放射線量を受ける可能性はほとんどない」「およそ100ミリシーベルト以下の放射線を浴びてもがんになる確率は上がらない」,と住民が不安なあまりに問うた質問に対して安心するように「ダマシタ」からです。第二次世界大戦中の日本軍731部隊が人体実験などしなかったという欺瞞を思い起こさせます45)。山下俊一カトリック医学者は「原子力の問題が出たときには,昭和20年の10月に書かれた永井隆の原爆救護報告書の最後の一文を述べるようにしています」,とカトリック医師永井隆[1908-1951]を頻繁に引用しています46)
近代文学研究者である大田正紀先生は,三浦綾子[1922-1999]女史の深い自己呵責を分析します。『道ありき〈青春編〉』で戦時下の教師として歩みが誤りであったことについて,「わたしは七年間,一体何に真剣に打ち込んできたのだろう。あんなに一生懸命教えてきたことが過ちなら,わたしは七年をただ無駄にしただけなのだろうか。いや,過ちを犯したということは無駄とはまったくちがう。過ちとは手をついて謝らなければならないものだ。……」,と46)
人が「石の叫び」が聞こえる中で互いに支え合うこともあります。そのことを実感させられたのは,二度にわたるベトナム水害ボランティア(2016年11月,2017年2月)です。私たち一行は,待ち合わせ時間を守り,礼節を尽くすベトナム人の責任感の強さに感銘を受けました。私たちは,ベトナム人から,人間が生きていく上での信頼を直に学びました。2017年2月,第2次ベトナム水害ボランティアのためベトナムに行った際も,ベトナム人は待ち合わせ時間,語ったことに対する責任感,礼節などにおいて,信頼できることを体験しました。
貧しい人達に対して,第1次ベトナム・水害ボランティア[2016年11月13日(日)~17日(木)]に参加した学生たちが驚いたのはベトナム人の約束に対する責任感の強さです。正直さは,労働力の質の高さに比例していると日本の学生の目に映ったようです。「働かざる者食うべからず」の共産主義を理想とする国にもかかわらず,屋台のような安価なレストランでカエル料理を食べていた時の体験は忘れられません。ベトナムに限らず,ネパール,インド,タイなどのアジア諸国の人々は一般にエネルギッシュであり,勤勉です。低賃金であるにもかかわらず,労働力の質の高さには目を見張るものがあります。「働かざる者食うべからず」の共産主義を理想とする国であるにもかかわらず,高齢のみすぼらしい物乞いが料金の安い屋台で食べている客たちの近くに来て施しを求めます。たいしたお小遣いがない高校生が寛大に施しをしています。紙幣ばかりのベトナムでは,10円相当の紙幣もありますから,差し出しやすいのかもしれません。店内を見渡すと,物乞いにそっぽを向く人はいません。わずかでも与えます。日本では考えられない光景です。他の物乞いが入ってきても,やはりみんなは要求に応じます。店は混雑し,忙しいにもかかわらず,店員たちも物乞いを追い出そうとしません。こういうことは拝金主義の現代の日本人には理解できません47)

b.石の叫びに敏感な者
 「石の叫び」に敏感な者と言えば,イエスのことが思い浮かんできます。「わたしは柔和で謙遜な者だから,わたしの軛を負い,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたは安らぎを得られる」を何度も聞かされてきておられることでしょう(マタイ 11:29)。イエスを「柔和で謙遜な」方と信じておられるなら救われません。「疑う者は救われるのです」。「柔和な」(ギリシア語prau<jプラウス〈貧しい,哀れな〉の意)はマタイ 21章5節にも出てきます。「シオンの娘に告げよ。『見よ,お前の王がお前のところにおいでになる,柔和な[プラウス]方で,ろばに乗り,荷を負うろばの子,子ろばに乗って』」。新約でカギ括弧が付いているのは旧約の引用です。アウグスティヌス[354-430]という西方教会の神学の父と言われる人物がいます48)。キリスト者は本来,非戦であったのに,神学的に正戦を正当化した人物ですから,個人的には尊敬していません。好きか嫌いかの二元論で申し上げるなら,関西弁で「好かん」となります。しかし,アウグスティヌスも良いことも語っています。「新約は,旧約のうちに隠れ,旧約は新約のうちに明らかになる」です49)。聖書の理解についての定石を語ったことは傑出すべきことです。マタイ 21章5節はゼカリヤ 9章9節の引用です。ゼカリヤ9章9節のヘブライ語ynI[‘アニーは「貧しい,みずぼらしい」ですから,ろばの子に乗った王の「貧しさ,みすぼらしさ」について聖書を読む際,サングラスをかけずにそのまま読みますと,マタイのプラウスも「柔和」ではなく,「貧しい」と訳すべきです。つづく「謙遜な」も本来のテキストの意味から脱線しています。tapeino,jタペイノス〈《身分の》低い,卑賎な,貧しい(ため見下されている)(社会的,精神的に)圧迫されている〉は身分が卑しいことを意味しています。ルカ 1章52節ではタペイノスを「身分の低い者」と訳しています。皆さんがイエスについてどのようなイメージを描きますか。少なくとも,金髪の長い髪,青い目,真っ白い膚,温厚で「柔和な」顔というのは,イエスの実像からは程遠いと考えられます。パレスチナのユダヤ人としてイエスのことを思い浮かべると,黒い髪,黒い瞳,褐色の膚です。さらにみずぼらしい,貧しいおっさんの顔です50)
画像 イエス

イエス・キリスト復元図

聖書は聖書によって解釈すべきです。「見るべき面影はなく 輝かしい風格も,好ましい容姿もない」(イザヤ 53:2)と登場する7世紀前に来たるべきメシア像が描かれています。
したがって,モーセも,キリストも,西暦一世紀の福音を語る側も聞いた人々はみなと言って良いくらい貧しい人達だったという視座で聖書を読み始めますとガラッと変わってきます。
マザー・テレサは,「石の叫び」に敏感な者です。彼女は,インドに来てから使命が変わったのです。信者を増やして,伝道して,信者を増やすことなどどうでもよくなったのです。道で出会う瀕死の人たちに接し,打ちのめされました。そして自分自身もイエスと同じように貧しくなったのです。「低く下って天と地を御覧になる」神とひとつになろうとしました(詩編 113:6)。今まで見えていなかったものが見えてきました。貧しく,小さくされた人々と共に生きるキリストと共苦するようになりました。そのためにバチカンから働きをやめるように刺客が使わされたのも一度ではありませんでした。日本で本田哲郎神父は3つの聖書翻訳に携わりました。大阪の釜ヶ崎で貧しい人達と生活を共にします。マザー・テレサと同じように信者を増やす伝道ではなく,貧しい人々と共生すると,ローマ・カトリック教会の大阪大司教は制限をかけました。本田訳聖書はカトリック系新聞では一切取り上げないこと,表紙は聖書らしくしていはいけないこと,司祭給与は一切与えないなど異端扱いです51)。『苦縁』の著者北村敏泰氏は本田哲郎氏についてインタビューしました。“いわゆる「布教」を釜ヶ崎でしない理由を,本田神父は「キリスト教の本質である人としての在り方を,ここの仲間は実践している。行いこそ大事なわけで,言葉で言う前にもう目的は達成されているからです」”,と52)
「主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために」(イザヤ 61:1),というイエスの言葉はそういう福音の表明でもあります53)
弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。(イザヤ 11:4)。
さて,イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は,幸いである,神の国はあなたがたのものである。(ルカ 6:20)。

画像 炊き出し

家,住民票,保障など一切ない「路上で生活をしている人」(英語 Bag people)は世界中,どこにでもいます。2014年,宮城県石巻市渡波で,第36次東北ボランティアの学生たちは田口政夫(72歳)さんと出会いました。田口さんは東日本大震災の当時は仙台駅をねぐらにしていました。雪かきをボランティアした班もいました。それほど寒い時に出会いました。京都大学の学生たちはもっていたカイロを喜んで差し出します。学生たちの中から,神戸にも路上生活者がいるのかどうかと質問がありました。1995年の阪神・淡路大震災以降,東遊園地(神戸市役所隣)で生活していると言うと,機構で炊き出しをしようということになりました。2014年4月以降,休まずに継続しています54)。居住する権利も脅かされています。ホームレスです。“ホームレスとは家がないというだけではありません。見捨てられ,臨まれず,愛されず,面倒をみてもらえない”,とマザー・テレサは来日の際,語りました55)。○○レスというのは,○○がないという意味です。「路上で生活をしている人」は,家族,身寄り,親戚もないファミリーレスでもあります。つまり人と人の関係が切断されて,孤独なのです。三つ目に希望がないホープレスです。路上生活者はホームレス,ファミリーレス,ホープレスの三重苦と筆者は定義づけしています。機構も週一回だけの炊き出しです。定期的に携わる楠元留美子さん,村上裕隆君たちは,「路上で生活をしている人」から感謝のねぎらいのことば「ありがとう」を言われなかったからと一喜一憂しません。なぜなら21食(一週間一日3食)の内,一食だけをお持ちしているにすぎないからです。「おいしい」と言ってもらいたいの気持ちが少しでもあるなら偽善です。ボランティア道に仕える者はたった一食を提供しているのに思い上がってはなりません。公園で共食して,苦しみの分かち合いをします。野宿者は生活保護を受けるように行政からすすめられます。そして月12万円の生活費が支給されます。ただしハローワークなどに出かけて,仕事につくことが条件です。ところが常雇いの仕事などありません。せいぜい長くて一週間の仕事がやっと見つかるくらいです。「官」から,「ちゃんと仕事をするという条件で生活費を支給しているんだ」,と厳しく言われるうちに,口うるさい行政から生活保護などいらないと思うようになります。日雇い労働者(カン拾い,廃品の識別,開店割引商品の並びなど)として,「路上で生活をしている人」にならざるを得ないのです。阪神・淡路大震災以降,神戸でも少なくとも20-30人の路上生活者がおられます。ところが美観が損なわれることを理由に,行政は文句,脅し,いやがらせで路上生活者に迫ります。機構も神戸市役所に何度も陳情に行ったため,いやがられました56)

 c. 石の叫びに敏感な生き様 
「現在の苦しみは,将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると,取るに足りないとわたしは思います」,とパウロの生き様は,「現在の苦しみ」(パセィマタ pa,qhmaパセーマの複数形〈受動的に経験する事柄,特に苦しい経験,つらい経験,苦難〉の意スムパスコーsumpa,scw <su,n「共に」+ pa,scw 「苦しみを受ける,苦難を経験する」)「共苦する」の名詞形 パトスの類義語)から出発します(ローマ 8:18)57)。17節は次の通りです。「もし子どもであれば,相続人でもあります。神の相続人,しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら,共にその栄光をも受けるからです」。
「石の叫び」に対する共感は,共に苦しむことを伴います。そのことをキリスト教倫理の大家ゲルハルト・リートケ[1937-]は的確に定式化して次のように言われました。「被造物とのわれわれの連帯は,共通の苦しみの連帯だけではなく,より弱い者の苦しみを共にし,それを和らげることのうちにも存在することが,示される」,と54)
世界最貧国ネパールにはおびただしい孤児がいます。神戸国際支縁機構の「縁」は,そのような水準の「共苦」とつながっています。「共苦」はまた,「苦縁」でもあります。「みなしごや,やもめが困っているときに世話をし,世の汚れに染まらないように自分を守ること,これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」 (ヤコブ 1:27)。それは泣き寝入りを意味しません。そこには神への絶大な信頼が込められています。ともするとキリスト者は,原発ピカドンの被災者に対しても,「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え,主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」,と「主は与え,主は奪う」方だと泣き寝入りする傾向があります(ヨブ 1:21)。しかし,ヨブを襲った災難はヤハウェが与え,奪ったのではなく,サタンがなしたことをヨブは知らずに述べた判断だと,旧約聖書学者勝村弘也先生は説き明かされています58)。気をつけないと知らないまま聖書観がずれているのです。「ただ信ぜよ」では困るのです。宮城学院女子大学の新免貢教授も“行儀良さという意味での「ディーセンシィー」(decency)を身につけているとされている支配体制側は,利害に反する言説に直面した時,「ディーセンシィー」を基準としてこれを抑圧することもあると注意を喚起されています59)。新免先生は,イザヤ 40章の見直しについて次のように言及されています。「肉なる者は皆,草に等しい。永らえても,すべては野の花のようなもの。草は枯れ,花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」に出ている内容は,人のいのちのはかなさと受け止められがちです(イザヤ 40:6,7)60)。しかし,アラム語訳のタルグームでは「すべて邪悪な者たちは草のようだ」と訳されています61)。ハーヴァード神学校クリスター・ステンダール神学教授 [1921-2008]はアラム語訳のタルグームを支持されています62)。そこには,「小を侮れば大は必ず滅びる」という人類の経験知と神への信頼が込められているのです。ところが,日本の為政者も邪悪な行為をしていても,現行の経済成長,失業率減少,就活有利の数字を巧みに宣伝し,民を誤導しています。成長至上主義から脱却しないと日本は取り返しがつかなくなります。ゼロ金利,ゼロ成長,ゼロインフレであることを忘れてはいけません。グローバリゼーションを追い求め,海外における安い労働力,資源獲得,原発輸出といった成長戦略も限界に来ています。そのことを認めない指導者をもっている日本の将来が不安です63)。 フランスの哲学者ミシェル・フーコー[1926-1984]は「人間の人間学的状況が,つねにその〈歴史〉をさらに劇的に盛りあげ,より危険のあるものとし,いってみれば,〈歴史〉をそれ自身の不可能性に近づけようとし続けていることに気づくに違いない。そうした境界にまで達した瞬間,〈歴史〉はもはや停止し,一瞬その字句のうえで身を震わせてから,永遠に不動化するよりほかなくなるのだ」,と歴史の終焉の予言があたらないことを願うのみです64)。前述の永井隆医師は著述『長崎の鐘』の中で,「浦上が選ばれて燔祭[ホロコースト 筆者加筆]に供えられた事を感謝致します」「平和の光さし出づる八月九日,此の天主堂の大前に焔あげたる,嗚呼大いなる燔祭よ!悲しみの極みのうちにも私たちはそれをあな美し,あな潔,あな尊しと仰ぎみたのでございます」,と「神の摂理」として被ばくを甘受するように,長崎の民に従順に受け止めるように語りました65)。ローマ・カトリック教会では,摂理という教義は不可触のものです。疑う者は救われません。永井は,1945年11月23日,浦上カトリック信徒代表として『原子爆弾死者合同葬弔辞』を読み上げました。“原爆は摂理だ,神のおぼしめしだ,犠牲者はいけにえの子羊だ”,と祈りました。怒りのヒロシマに対して,祈りのナガサキと言わしめるきっかけになりました。一方,作家の石牟礼道子[いしむれ 1927-]さんの『苦海浄土――わが水俣病』について,宗教学者島薗進先生は『こころをよむ NHKシリーズ』で叙述しています。“作者は,「安らかにねむって下さい」というような言葉は,生者による欺瞞のための言葉ではないかと問うています。「釜鶴松の死につつあったまなざしは,まさに魂魄この世にとどまり,決して安らかになど往々しきれぬまなざしであった」と。そのまなざしを思うと「わたくしは自分が人間であることの嫌悪感に,耐えがたかった」”と66)。人々の苦しみを神の摂理とすり替えない描写の方に「共苦」を体感できます。
1981年2月25日,ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は「戦争は人間の仕業です」と語り,神の摂理ではないことをヒロシマで語りました。永井隆とヨハネ・パウロ二世のどちらが正しいか,祈りのナガサキと怒りのヒロシマのどちらに組みするかという発想をやめることが筆者の論考の一貫した見方です。アメリカ合衆国の福音派の中には,シリアで何万人も殺されているのは神の摂理なんだ,とみなすネオコン的キリスト者もいることを忘れてはいけません。
社会学者村田充八先生は,ウルリッヒ・ベック[1944-2015]の『危険社会―新しい近代への道』について再解釈しています。「『危険社会』に生きる人間が,その社会的な危機に対してあまりにも楽観的であるということである。言い換えると,『危険社会』のなかに生きる人間は,その存在の根底に横たわる危険姓に,またそのようなものをつくり出した人間の本質に,まったく気づいていないということでもある」,と警告されます67)
「無関心」という危険社会にあって,「疑う者は救われ,信じる者は救われない」真理契機を黙想しましょう。時代状況を見つめ,熟考し,なすべきことを実践していく皆さんの思いは,福音として,貧困であえぐ孤児たちや痛めつけられた人々の心に届けられるでしょう。貧困であえぐ孤児たちと共生,共苦,苦縁の生き様こそが「キリストの手紙」なのです。それが福音です。

出典

1)『三つの石で地球がわかる』(藤岡換太郎 講談社 2017年 93-94頁)。
2)『石巻日日新聞』(2017年6月2日付),『牡鹿新聞』(2017年5月26日付)。
3)『恩恵の光と自然の光』(春名純人 聖恵授産所出版部 2003年 79頁)。
4)茂木健一郎はで“自分の脳の中の神経細胞の活動を見渡す「小さな神の視点」はもっている。私たちの意識は,脳の中の神経細胞の活動に対する「小さな神の観点」として成立している“,と神は超越論的存在ではなく,人間の脳の中に,神が棲んでいると言う『脳の中の小さな神々』(柏書房 2004年 259頁),『なぜ,脳は神を創ったのか?』(苫米地英人 フォレスト出版 2010年 35頁)。
5)『ゲーデルの哲学』不完全性定理と神の存在論(高橋昌一郎 講談社現代新書 1999年 214頁)。
6) Time to Stand Up  by Richard Dawkins,  “Religion’s Misguided Missiles,” appearing in The Guardian on September 15, 2001『神は妄想である―宗教との決別』(リチャード・ドーキンス 垂水雄二訳 早川書房 2007年)の著者,生物学者のドーキンス[19411-]は「私のアブラハムの宗教に対する敬意は,9月11日の煙と息を詰まらせるような砂埃の中で吹き飛んだ」My respect for the Abrahamic religions went up in the smoke and choking dust of September 11th. The last vestige of respect for the taboo disappeared as I watched the “Day of Prayer” in Washington Cathedral, where people of mutually incompatible faiths united in homage to the very force that caused the problem in the first place: religion. It is time for people of intellect, as opposed to people of faith, to stand up and say “Enough!” Let our tribute to the dead be a new resolve: to respect people for what they individually think, rather than respect groups for what they were collectively brought up to believe.
7)『新約聖書ギリシア語精解』(W.バークレー 滝沢陽一訳 日本基督教団出版局 1970年)。否定を表す接頭辞「ア」がついて,「アストルゲー」。「無知,不誠実,無情,無慈悲です」(ローマ 1:31)の「無情」;“Enhanced Strong’s Lexicon”James Strong Woodside Bible Fellowship 1995。
8)『家族喰い―尼崎連続変死事件の真相』(小野一光 太田出版 2013年 13頁)。
9)『暗い時代の人間性について』(ハンナ・アーレント 仲正昌樹訳 情況出版 2002年 22頁)。
10)”ホンネスト”(ゼクシィ編集部実施調査 2015年8月)。
11)『沈黙の世界』(ピカート 佐野利勝訳 みすず書房 1976年 108頁)。
12)『西日本新聞』(2017年4月16日付)。
13) 『寄付白書2013』(特定非営利活動法人「日本ファンドレイジング協会」政府[内閣府:税制調査会])。2012年の個人寄附総額は6,931億円。
14) “Systematic Theology”Vol.1 (Tillich University Chicago Press 1955a  p.379)。ティリッヒは彼の思索活動において,信仰義認論の拡張を要請し,罪人のみならず懐疑する者も義とされるという再解釈へ導いた。これが「懐疑者の義認(Rechtfertigung des Zweiflers)」と呼ばれる思想である。信仰は「否」の不安にもかかわらず「然り」と言う。神学者パウル・ティリッヒ[1886-1965]は,「信仰は懐疑の「否」と懐疑の不安を除去しない」と言う。人間が持ち合わせている本質的な疑い,「こんなに悪が許されているのに,神はいるのか」などの「疑い」についてティリッヒは「懐疑者の義認」と考えました。「疑う」者も罪人と同じように義とされる(Rechtfertigung des Zweiflers)と解釈したのです。良心に基づく懐疑は赦され,悪意に基づく懐疑は赦されないともティリッヒは述べました。
15) 第1次東北ボランティア報告書 神戸国際支縁機構 http://kisokobe.sub.jp/event/22/。
16)『朝日新聞』 (2012年3月17日付 東京大地震研究所の都司嘉宣准教授が計測)。亀山紘「東日本大震災における死」(「『死』を考える」講座 神戸新聞会館 2012年4月23日)。
17)『神戸新聞』夕刊(2016年11月20日付)。
18)『石巻かほく』(2017年3月8日付)。
19) 『人は皆「自分だけは死なない」と思っている ――防災オンチの日本人』(山村武彦 宝島社 2005年 75頁)。
20) 〃 (37頁)。
21)『朝日新聞』 天声人語(2017年5月29日付)。
22) 拙稿『目薬』 №24 2001年 7頁参照。
23)『交わり』No.589 (水垣渉 キリスト教と自然観―〈自然〉を聖書的伝統から考え直す試み― 2015年 3-4頁)。
24) 拙論「キリスト教とボランティア道」―水平の<運動>から,垂直の<活動>に―(第26回宗教者災害支援連絡会 東京大学本郷キャンパス 2016年)。
25) 拙稿『支縁』No.10(4頁 神戸国際支縁機構発行 2015年2月),『NHKスペッシャル』防潮堤400㌔ 2015年5月30日放映。
26) 『キリシタン南蛮文学入門』(海老沢有道 教文館 1991年 158頁)。
27) ヘブライ語!yBビィーン「識別する」 have  discernment  insight  understanding.
28)『機械と神』(ホワイト 青木靖三訳 みすず書房 1972年 88頁)。
29) 拙稿「ただ衣食あらば足れり」『中外日報』(2013年5月21日付)。30)『二十世紀神学の形成者たち』(笠井恵二 新教出版社 1993年 23頁)。
31)『キリスト者の自由・聖書への序言』(マルティン・ルター 石原謙訳 岩波文庫 1949年 52頁)。
32)『SOWER』(岩井健作“弱者に対する聖書の視点”日本聖書協会 2009年 8-9頁)。
33)『宗教とは何か』(田川建三 大和書房 1988年 315頁)。
34)『ルカ福音書における貧者と富者』(嶺重淑 神学研究 関西学院大学神学研究会 2003年 35-36頁)。
35) 拙稿「第3次バヌアツ報告 2017年3月」http://kisokobe.sub.jp/international/9878/
36)「学生生活実態調査の結果報告書」(東京大学 第62回 2012年調査 2011年12月発行)。
37)「国民生活基礎調査の概況」(厚生労働省 2016年7月12日 平成27年版(2015年版)の世帯平均所得)。
38)「賃金構造基本統計調査」(厚生労働省 2017年2月22日公表)。
39)「『ボランテイア・福祉・宗教』で対話集会」岩村義雄×釈徹宗×木原活信『キリスト新聞』社主催 賀川記念館 2016年10月1日。
40)『朝日新聞』(2015年11月8日付)。
41)『沖縄タイムス』(2017年6月1日,2016年1月30日付)。
42) 拙稿 「第1次イタリア・ボランティア報告」(神戸国際支縁機構 2017年6月)。ウィキペディア イタリア中部地震2016年8月https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%B8%AD%E9%83%A8%E5%9C%B0%E9%9C%87_(2016%E5%B9%B48%E6%9C%88)
43) 月刊『FACTA』(纐纈一起,大木聖子 2013年2月号 LIFE)。
44)『日本経済新聞』(2011年5月8日付)の誤報。
45) Finding meaning in the changing face of matter Lucas Whitefield Hixson DAILY KOS 2011年12月18日付。
46)『七三一部隊――生物兵器犯罪の真実』(常石敬一 講談社現代新書 1995年 92-133頁)。
47)『日本カトリック醫師會々誌』(2012年 11月 No.51 113-114頁)。
48)『祈りとして文芸』(大田正紀 西部中会文書委員会 2006年 47頁)。
49)拙稿 「第1次第1次ベトナム・水害ボランティア報告」(神戸国際支縁機構 2016年11月)。
50) 拙稿「アウグスティヌスの生涯と信仰」(KBHセミナー 2005年8月2日)。
51) Novum Testamentum in Vetere latet, Vetus in Novo patet「ノーブン・テスタメントゥム・イン・ヴェテレ(old)・ラテト(hidden 隠されている)・ヴェートゥス(old)・イン・ノヴォ・パテト(come to light 明らかにされる) 」と述べました。Quaestiones in Heptateuchum 2, 73)。
52)「神の子」(法医学人類学者リチャード・ニーブ BBCドキュメンタリー 2001年)。
53) 「小さくされた人々のための福音」講座(神戸国際支縁機構 2004年11月から 勤労会館4階)。
54)『苦縁』(北村敏泰 徳間書店 2013年 187頁)。
55) 拙論「福音とは何か」(礼拝説教 神戸国際キリスト教会 2014年9月21日)。
56)「社会的弱者と『縁』を結ぶ」 『中外日報』(2014年7月4日付),「炊き出し」(楠元留美子 『支縁』No.10(1頁 神戸国際支縁機構 2015年2月)。「炊き出し」神戸国際支縁機構のホームページ参照。
57)『愛―マザー・テレサ 日本人へのメッセージ』(マザー・テレサ 女子パウロ会 2003年 51頁)。
58) 拙稿「神戸市カン条例について」『中外日報』(2014年7月4日付。ラジオ関西 2014年8月1日。
59)拙稿「共苦」(『朝祷』2014年10月1日付)。
「苦しみ」(パセィマタ pa,qhmaパセーマの複数形〈受動的に経験する事柄,特に苦しい経験,つらい経験,苦難〉の意。文脈の17節のスムパスコーsumpa,scw <su,n「共に」+ pa,scw 「苦しみを受ける,苦難を経験する」。pa,qhmaパセーマとpa,qojパトスは類義語。
60)『生態学的破局とキリスト教』(ゲルハルト・リートケ 安田治夫訳 新教出版社 1989年 217頁)。
61)『ヨブ記解釈の諸問題』(勝村弘也 基督教学研究第26号 2006年 4,5頁)。
62)『宗教と暴力,そしてディーセンシィー』(新免貢 宮城学院女子大学研究論文集 2016年 15頁)。
63) 同 (16頁)。
64) バビロン捕囚頃よりユダヤ人 のなかには聖典の言葉である古代へブライ語を解するものが少くなったためユダヤ教の聖典 (旧約聖書) のアラム語訳をいう。バビロン捕囚頃よりユダヤ人のなかには聖典の言葉である古代へブライ語を解するものが少くなったため,会堂での祈祷に際して,会衆の理解のため祭司の読むへブライ語原典をアラム語に訳することが行われた。翻訳は,2世紀のエジプト人の改宗ユダヤ教徒オンケロス Onkelos による。したがって,正式にはタルグーム・オンケロスと呼ぶ。単にタルグームというと,タルグーム・オンケロスを指すことが多い。
65) クリスター・ステンダールは,ローマ3章22節において,「イエス・キリストを信じる信仰」によって(口語訳)と訳されてきた dia pisteos Iesou Xristouという句も,「イエス・キリストの信実によって」と訳することが可能とされ,それはまた「神の契約に対する忠実としての義が,イエス・キリストの信実(pistis)によって(顕された)という意味をもつとされる。これもまた主格的か目的格的かが論議される中心的な属格表現である。『パウロ解釈の新視点についての一考察―ルター神学の立場から』(橋本昭夫 『福音主義神学』46号 2015年 81頁)。
66)『資本主義の終焉と歴史の危機』(水野和夫 集英社新書 2014年 196頁)。
67)『言葉と物―人文科学の考古学―』(ミシェル・フーコー 渡辺一民・佐々木明訳 新潮社 2012年 278頁)。
68)『長崎の鐘』(永井隆 サンパウロ 1995年 143,146,148頁)。「燔祭」hl’A[ オラー〈全焼のいけにえ〉は焼き尽くすので,煙が昇っていくことが特長。『セプトゥアギンタ訳』ではo`lokautw,mata ホロカウトーマタ 英語「ホロコースト」(ナチスによる殺りく)はギリシア語七十人訳聖書の「焼かれたいけにえ」が語源。
69)『NHKラジオテキスト』(島薗進「物語のなかの宗教」2015年1-3月 167頁)。
70)『キリスト教と社会学の間』(村田充八 晃洋書房 2017年 201頁)。

編集後記

今,プロテスタント,とりわけ福音派のキリスト教会の多くが戸別訪問や伝道で用いているトラクトやパンフレットにはどんな文字が印刷されていますか。
筆者も家内の病気を通して,聖書通読によって,ものみの塔の教理の間違いに気づかされました。はじめての牧師会に出席したときも,神戸の牧師たちから白い目で「こいつがあのサタンか」とにらまれました。筆者の過去を調べれば,調べるほどすねに傷かあると言いますか,顔が赤らむことばかりが出てきます。一方,キリストは調べれば調べるほど,まったく罪がない清いお方だと対照的な事実があります。30名以上の仲間と集団離脱したことも感謝です。今,牧会に携わっているメンバーも一人ではありません。
キリスト教界は,神道出身,仏教からの回心者と異なり,ものみの塔の前科者には厳しい世界です。筆者は1995年から2011年まで,クリスマスフェスティバル,神戸聖書展,日本プロテスタント宣教150周年記念の事務局など罪滅ぼしの気持ちで仕えました。
間違いについて恵みによって気づかされ,脱会して約30年近く経ちました。思わせられることがあります。ものみの塔と同じように,キリスト教会にも小さな石の叫びに対して「無関心さ」なのではと思わせられることもあります。
明らかに「ものみの塔」の信者の教理はまちがっています。
しかし,隣人愛を実践するキリスト教界の伝道用のトラクトなどには自己義の表現があります。たとえば,「ものみの塔(エホバの証人),モルモン教,統一協会とは一切関係がありません」「ものみの塔(エホバの証人),モルモン教,統一協会でお困りの方はご相談ください」という文言です。自分たちこそ正義であって,そんな輩と一緒にしないでくれとアピールしています。海外へ行ってみてください。アフリカなどで現地の人々が最初に手にする聖書は『新世界訳』聖書(ものみの塔聖書協会発行)が圧倒的に多いです。日本でも,王国会館へ毎週定期的に集う信者の数,求道者の数はキリスト教会を上回ります。世界最大の異端組織と言われています。彼ら独自の聖書は翻訳数が多いだけでなく,紙爆弾のように大量に出回っています。そんな誤訳だらけの聖書ですら,筆者たちのように,読んでみてキリストをまことの神として仲間達と教会の門をたたく者もいます。

岩村カヨ子 筆者の講演後 王国会館 1985年7月18日 Kayoko Iwamura

ものみの塔の内部にいて,伝道で疲れ果て,教えに疑いを持ち始めたとしましょう。しかし,そんなとき,「ものみの塔と関係がありません」という無慈悲なキリスト教会に愛を感じて,心を開くでしょうか。神が愛する方だと思うでしょうか。

「小さな石」の中には,霊的に「貧しい」者たちもいることを忘れてはならないでしょう。さらに,樋口進先生が『自然の問題と聖典』(関西学院大学キリスト教と文化研究センター キリスト新聞社 2013年)の中で,自然界全体が「共にうめき,共に産みの苦しみを味わっている」(ローマ 8:22)の現状も無関心に見過ごすことができない大きな課題と発題しておられます。人間と自然との関係はどうあるべきかも,「石の叫びに敏感であろう」に関係しています。今回は90分の講演のため,準備した原稿に網羅できなかったことを深謝すると共に次の機会に譲りたいと思います。
なお,原稿の表現のいたらなさ,誤字などを校閲してくださった村田充八先生,新免貢先生,土手ゆき子姉に心よりお礼を申しあげます。神戸国際支縁機構の戦友であり,同士でもあられます。本田哲郎司祭はセミナーを通じて,解放の神学を導いてくださり,本稿の導線となりましたことを感謝しています。神戸国際支縁機構の理事であられる水垣渉先生,白方誠彌先生が弱者のための働きを常に見守ってくださることが被災地でのゴキブリ道の安全弁になっています。
最後に,昨年10月17日に亡くなった妻岩村カヨ子のおかげで,国の内外において貧しさのゆえに叫ぶ小さな石である孤児たちを訪問できています。さらに,「カヨ子基金」を通じて,教育費を支縁できる恵みをパートナーであるカヨ子と共に喜びたく,手を合わせます。
2017年6月24日
岩村 義雄