「死刑は聖書的か」(英文付)“Christianity and Death Penalty”

死刑は聖書的ではない


⇒ オウム真理教の松本智津夫死刑囚ら幹部7人の死刑執行 牧師「執行よりも大切なことがあったのでは」

⇒ 山形浩之牧師ブログ 「死刑囚」を変えうる「福音のチカラ」

<参照> 死刑についてどう考えるか
死刑イラスト

完全原稿 ⇒ 「死刑は聖書的か」出典各頁
       「死刑は聖書的か」 出典最後

英文完全原稿 Complete manuscript of  English ⇒ Christianity and Death Penalty

「キリスト教と死刑」
主 催 「地球市民の会」 

2009年5月24日
神戸市立外国語大学
講 師 : 神戸国際キリスト教会 
牧師  岩村義雄 Ⓒ

主題聖句:  ヨハネ 8:3-5 そこへ,律法学者たちやファリサイ派の人々が,姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て,真ん中に立たせ,イエスに言った。「先生,この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと,モーセは律法の中で命じています。ところで,あなたはどうお考えになりますか」。

<序>
 21日に裁判員制度が始まりました。私自身は法律について無知であり,平素,裁判などについても精通している者ではありません。ですから,死刑についてどう考えるかというのは,宗教者の視点でしか語ることができないことをご了解ください。和歌山の毒物カレー事件で殺人などの罪に問われた林真須美さん[47]に対して,先週21日に,上告審判決は,1,2審に続き状況証拠の総合評価によって被告の犯行と認定しました。犯行動機はわからないまま,状況証拠だけで,死刑がくだされるのです。ちょうど,21日は裁判員制度がスタートする日でもありました。
 昨年4月22日(火),母子が殺害された事件のことで,殺人や強姦致死などの罪に問われた元少年の被告[28,当時18]の差し戻し控訴審判決で広島高裁(楢崎康英裁判長)は死刑を言い渡しました。
  もしあなたが裁判員になられたとしたら,今回のカレー事件で60人の被害者が出て,4人が亡くなられた事件について「あなたならどうお考えになりますか」,と。
 1988年2月23日未明,名古屋市でアベックを不良達が襲って順々になぶり殺しにするという事件がありました。死刑が話題になり,ある検事が「娘が殺されたら,俺は検事を辞めて犯人を殺してやる」,と言ったそうです。そのとき,修習生が尋ねました。「じゃあ,奥さんが殺されちゃったらどうするんですか」,と。検事は,黙って,両手を合わせた。そして言った。「拝んじゃう。犯人に向かって,ありがとうございましたって」。
 検事ですら,人間であります。被害者の気持ちに感情移入してしまうこともあるでしょう。報道は加害者と弁護団対被害者遺族と検事のどちらにつくかという二元論的な対立構図を流します。先入観をもって裁判官は務まるでしょうか。裁判員裁判の死刑判決について、裁判官と裁判員による評議で多数決によって決めるのではなく,死刑判決は全員一致となるまですべきでしょう。しかし,今の判決制度では多数決で決するのです。冤罪ということもあるのです。人の死を数で決めていいのでしょうか。1948年1月26日の「帝銀事件」では,毒薬についてまったく知識のない画家の平沢貞通が逮捕されました。連日,拷問に近い取調べに「自白」させられてしまいます。1994年に,「松本サリン事件」では、警察は毒薬について素人の河野義行を犯人と見込んで自宅を強制捜査し,自白を強要しました。今日はご一緒に「死刑についてどう考えるか」を考えてみたいと思います。
<註> 聖書は日本聖書協会発行の『新共同訳』を用いています。

目次

(1) 死刑は聖書的かどうか          
 a. 旧約聖書の律法―等価交換の法則2
   処刑は抑止力
 b. 死刑は神の律法
   死刑は復讐ではなく,罪の償い
 c. パウロは死罪について語っている3
  イエスでさえ,死刑制度を一度も非難されなかった
(2) 神は人の死を望まず,悪人さえも生かしたい
 a. 殺人者に対する神の思い
   一人も滅びないように
 b. 処刑より,回心をもたらす方が大切である4
  犯罪者たちに自ら悔い改め,遺族に対する悔悛
  「仇討ち」が日本では当たり前の空気
c. 神は人の死を望まず,回心を望む5
   わたしはだれの死も喜ばない
 (3) 人を殺してはいけない
  a. 復讐をしてはならない
遺族が加害者を赦したとき6
  b. 初代教会では死刑を拒否していた
  c. 永遠の教えである十戒7

(1) 死刑は聖書的かどうか
 a.  旧約聖書の律法―等価交換の法則  

 申命記 19:21 「あなたは憐れみをかけてはならない。命には命,目には目,歯には 歯,手には手,足には足を報いなければならない」
 死刑は殺人を思いとどまらせるでしょうか。人間の考えをよくご存じである人間の造り主は,次のように言います。
 文脈の20節で,「ほかの者たちは聞いて恐れを抱き,このような悪事をあなた中で二度と繰り返すことはないであろう」
 「ほかの者たちは聞いて恐れを抱き」と書かれていますように,処刑は抑止力につながるのです。たとえば,殺人犯は刑務所の内でも外でも再び殺人を犯すことが極めて多いのです。“更生した”殺人犯も相変わらず無実の生命を奪っています。
 死刑が行なわれないことが,無実の生命を安くしていることになりませんか。

 b. 死刑は神の律法
 出エジプト記 21:12 「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられ」。

 文脈の14節で,しかし,人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば,あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して, 処刑することができる。「罪の報いは死」(ローマ 6:23)という律法に基づいて,処罰することは決して不法ではありません。石打ちの刑,すなわち死刑は復讐ではなく,罪の償いと考えるわけです。人を故意に,もしくは不注意であっても殺したら,自分の命を持って償うことが律法で説かれました。
 アメリカの大統領選挙で共和党候補のハッカビーが,キリスト教福音派からの圧倒的な支持を受けて2008年に急浮上しました。死刑制度を肯定するハッカビー氏はバプテスト教会の牧師でもありました1)

c. パウロは死罪について語っている
 ローマ 1:29-32 あらゆる不義,悪,むさぼり,悪意に満ち,ねたみ,殺意,不和,欺き,邪念にあふれ,陰口を言い,人をそしり,神を憎み,人を侮り,高慢であり,大言を吐き,悪事をたくらみ,親に逆らい,無知,不誠実,無情,無慈悲です。彼らは,このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら,自分でそれを行うだけではなく,他人の同じ行為をも是認しています。

 パウロは「あらゆる不義,悪」「死に値する」と述べています。
 パウロ自身訴えられたことがあります。「ユダヤ人の律法に関する問題であって,死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました」(使徒 23:29)という場面で,当時の司法制度について,反論せずに,法を遵守しながら死罪について次のように語りました。  「もし,悪いことをし,何か死罪に当たることをしたのであれば,決して死を免れようとは思いません。しかし,この人たちの訴えが事実無根なら,だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します」(使徒 25:11)。
 パウロは「上に立つ権威」に従い,「死罪に当たる」犯罪を犯した場合,刑に服することがふさわしいと説き勧めます(ローマ 13:1)。イエス・キリストでさえ,十字架という死刑制度を一度も非難されなかったのです。七つの教会のひとつの悪行に対して,黙示録で言います。
 黙示録 2:23 「また,この女の子供たちも打ち殺そう。こうして,全教会は,わたしが人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる。わたしは,あなたがたが行ったことに応じて,一人一人に報いよう」
 では,あなたが裁判員に選ばれたとするなら,どんな判断を下しますか。

(2) 神は人の死を望まず,悪人さえも生かしたい
 a. 殺人者に対する神の思い
 世界の最初の殺人者は「決して死ぬことはない」と言ったサタンです(創世記 3:4)。「ただし,善悪の知識の木からは,決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記 2:17)と宣告されたとおり,「 ベ ヨーム」(~の日に 『文語訳』にはある「日には」)が原文通り訳出されていません。「食べた日には必ず死んでしまう」と訳すべきです。文字どおり,24時間以内にアダムとエバは霊的に死んでしまいました
(創世記 5:5; マタイ 8:22; ルカ 15:24 エフェソス 2:1)2)
 続いて, 人類の最初の殺人者はカインです。そんな悪行者であるカインに対してでさえ,神が申し述べた言葉に注目しましょう。
 創世記 4:15 「主はカインに言われた。『いや,それゆえカインを殺す者は,だれであれ七倍の復讐を受けるであろう」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように,カインにしるしを付けられた』,と。殺人者カインに対して「だれも彼を撃つことがないように」と神は命じられました。なぜなら,人間を創造なさった方は,「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと,あなたがたのために忍耐しておられるのです」(Ⅱペトロ 3:9),と自発的な悔悟を願う忍耐強い方だからです。

 b.処刑より,回心をもたらす方が大切である
 加害者は,被害者の生命を奪いました。カインはアベルを殺してしまいました。それだけではありません。

 創世記 4:6,7 「主はカインに言われた。『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら,顔を上げられるはずではないか。正しくないなら,罪は戸口で待ち伏せており,お前を求める。お前はそれを支配せねばならない』」,と一人ひとりに申し開きを求めておられます。カインに対して罪が「お前を求める」(ヘブライ語 テシュカッハ「〈相互に〉恋い慕う」)と書かれています。罪を支配することより,慕ってしまったのです。カインは自分自身の内なる人を殺してしまう加害者になりました。魂,つまり命を与えた授与者より「罪」の方を慕ったことになります。
 ヨエル 2:13 「「あなたたちの神,主に立ち帰れ。主は恵みに満ち,憐れみ深く 忍耐強く,慈しみに富み くだした災いを悔いられるからだ」,と「忍耐強く」(ヘブライ語アーレク 「怒るのに遅く」の意)」という神に特質について,旧約で15回近く書かれています。「怒るのにおそく」というスピリットは,神だけではなく,キリスト者に求められている資質です。「わたしの愛する兄弟たち,よくわきまえていなさい。だれでも,聞くのに早く,話すのに遅く,また怒るのに遅いようにしなさい」 (ヤコブ 1:19 ),と命じておられます。
人間を創造された方の視座を考えると,死刑は聖書的と言えるでしょうか。むしろ怒り,私憤,仕返しの個の「義」を主張する前に,いのちの授与者が語る「怒るのにおそく」というスピリットを黙想,熟考し,実践すべきでしょう。

 そうすれば,犯罪者たちが自ら悔恨し,遺族に対する悔悛の機会と時間が与えられます。死刑制度はその猶予を不可能にしています。2001年大阪府池田市の大阪教育大付属池田小学校に,犯人宅間守(37歳)が出刃包丁を持って乱入し,児童8人を次々と殺害しました。宅間自身は傷害・恐喝・放火未遂・詐欺・動物虐待などの10数件の犯罪記録がありました。死刑確定から約1年後の2004年,宅間守は大阪拘置所で死刑を執行されました。獄中結婚していた女性は語りました。「せめてもう少し会話する時間がほしかった。贖罪(しょくざい)意識を引き出せぬまま終わってしまい,ざんきの思いに堪えない。力不足でした」,と3)
 ルカ 23:34 「そのとき,イエスは言われた。『父よ,彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』」,と処刑される時ですら,相手への赦しを祈りました。相手を「赦す」 は「アフィエミ〈負債,罪,あやまち等〉を見逃す」の意です。
 山口県光市で1999年に起きた「母子事件」の被害者の遺族が加害者の青年に対して愛情を感じたりすることはとうてい無理でしょう。第1審,第2審において,犯行時18歳だった被告を無期懲役と判決。しかし,被害者の夫は,死刑にすべきと裁判所や社会に訴え続けました。世論やメディアもそれを後押ししました。その結果,最高裁は審理を高裁に差し戻し,差し戻し控訴審で死刑判決としました。裁判所は正義を貫いたとマスコミも当然の判決と歓迎しました。
 被害者の親族や縁者が殺人者を殺しても死刑にはならない「仇討ち」が日本では当たり前の空気です。毎年,12月になると,忠臣蔵のドラマが視聴者の涙をさそいます。「必殺仕置き人」のドラマの人気は根強く,怨念,恨,恨みをはらす悪者の最後のシーンが鮮やかに放映されています。
 罪を犯した者に自分の犯した罪を認め回心するように,遺族が祈ることができるようになれば,遺族自身も癒されるのではないでしょうか。処刑によっては解決できないスピリチュアルな問題です。たとえ,死刑で加害者が死んでも,加害者を憎み続ける自分に疲れ,それでも赦すことができない苦しみをどうやって癒やすのでしょうか。
 マタイ 5:44 しかし,わたしは言っておく。敵を愛し,自分を迫害する者のために祈りなさい。

 c. 神は人の死を望まず,回心を望む
 エゼキエル 18:23-32 「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか,と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって,生きることを喜ばないだろうか。しかし,正しい人でも,その正しさから離れて不正を行い,悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら,彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく,彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。それなのにお前たちは,『主の道は正しくない』と言う。聞け,イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは,お前たちの道ではないのか。正しい人がその正しさから離れて不正を行い,そのゆえに死ぬなら,それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。しかし,悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら,彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて,自分の行ったすべての背きから離れたのだから,必ず生きる。死ぬことはない。それなのにイスラエルの家は,『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ,わたしの道が正しくないのか。正しくないのは,お前たちの道ではないのか。それゆえ,イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く,と主なる神は言われる。悔い改めて,お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて,新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ,どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って,生きよ”と主なる神は言われる」

 命の創造者は,「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って,生きよ」,と犯罪者であろうとも「死」を決して喜ばれないのです。「『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って,生きよ』と主なる神は言われる」(同 32節)と視座の転換を願っておられます。ちなみに「悔い改め」(シューブ)は18章だけで14回出ています。BDB『旧約ヘブライ語-英語辞典』(Hebrew and English Lexicon of the Old Testament, Brown,Driver and Briggs Oxford 1978によると,1075箇所において「向ける,帰る,報いる,納める」の意味で用いられています。「悔い改める」は誤訳です。メタノイア参照4)

(3) 人を殺してはいけない
 a. 復讐をしてはならない
 ローマ 12:19 「愛する人たち,自分で復讐せず,神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること,わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
「死をもって償わせる」ことが本当に「償い」になるのでしょうか。現在,すでに拘束され,無力化させられている犯罪者を国家が殺害するのです。裁判で死刑判決が下り,絞首刑という報復をして満足できるのでしょうか。国家権力は,歴史を振り返りますと,市民の人権を踏みにじってきたリヴァイアサンの抑圧の性向があります
5)。死刑は国家権力による暴力の一つの極限的あらわれと言えます。死刑制度は,私たちの意識の深層に,「市民の安全のためには拘束もやむを得ない」「秩序を乱す分子は排除」「法律遵守は人のいのちより優先する」という意識,思想,教育を植え付けてきました。
 つまり,「死刑制度」は「生命の尊厳は絶対である」という人権思想と,実は対極にあるものといえます。
 身内を殺された家族にとり,死刑による処刑で気が済むでしょうか。はたして被害者の遺族の心は癒やされるのでしょうか。
 原田正治(まさはる)さん(36歳)は, 1983年,愛知県で仕事中だった実弟・明男さん(30歳)を含む三人が保険金目当てで殺害されました。最初は,殺人を犯した犯人には極刑を望んでいましたが,処刑されてしまうより,生きて償いの気持ちを持ち続けて欲しいと思うようになります。「決して赦したわけではない」と自分にも言い聞かせながら,現在は死刑制度廃止を訴える活動をしています。なぜなら「加害者の命を奪うことでは被害者は救われない」と確信したからです。ところが原田さんは「国家に裏切られ」,犯人は処刑されてしまいました。「果たして僕には,彼を赦す権利があるのだろうか」「生きる,死ぬは,人間が判断する事柄ではない」と訴えるようになります6)
 加害者が回心し,罪を認め,心から悔恨と謝罪をし,遺族が加害者を赦したとき,はじめて双方の心がいやされる糸口ができます。もつれたが深手の傷が回復し,共に根本的に赦されるのではないでしょうか。
 加害者の親族は,世間からの白眼視にどれだけさらされるかを忘れてはなりません。自殺したり,転居を余儀なくされたり,近所のうわさに苦渋の日々を生涯を送ることになります。1997年,神戸市須磨の酒鬼薔薇聖斗の少年の社会を震撼とさせる事件がありました。加害者の少年の親戚がおられました。遠く離れていても,一歩も外出をなさらなくなったことを知っています。加害者の親族は死刑になろうが,ならなくても十字架を背負った人生に送ることになります。
 キリストが十字架という死刑制度に反対しなかったのは,相対的な「上に立つ権威」に従うことではなく,絶対的な神の権威に「死に至るまで,それも十字架の死に至るまで従順でした」,と自己「義」を主張しなかった模範です(フィリピ 2:8)。

 b. 初代教会では死刑を拒否していた
 キリスト教が国教になるまで,死刑制度に対して,クリスチャンは拒絶していました。

 初代教父の文献によると,「しかしクレメンスの立場は普遍的ではなかった。同時代の北アフリカのテルトゥリアヌスは「いかなる場合であっても人を殺めることは禁ずる」と主張し,死刑の実践をきっぱりと反対した。(『見せ物について』2)。ユスティノスと同様,テルトゥリアヌスはキリスト者が軍務に就くべきでないと信奉する平和主義者であった。 ヒッポリュトスはローマの牧会者であり,兵士には洗礼を施すことは断じてあってはならないと聖職者達に促した。「権力のもとにある兵士は人を殺してはならない。人をころすよう命令されても実行してはならない」,と。(『使徒伝承』 16章9節)7)
 イエス・キリストと山口母子事件の加害者である少年はぜんぜんケースが異なりますが,冷静さを失った民衆が,「極刑にすべきだ」「死刑は当然だ」という論調一色は,一世紀に民衆が,「イエスを十字架につけろ」と熱狂したのと同じではないでしょうか。
 日本では,死刑制度を容認する人が8割以上います(2005年2月19日内閣府公表の世論調査)。
出典:www.asahi.com
出典:www.asahi.com

凶悪犯罪は日本だけで起きているわけではないが,相次ぐ凶悪犯罪による社会不安が死刑容認論に拍車をかけています。
国連総会は死刑執行の一時停止を求める決議案を賛成104ヶ国で採択。一方,日本,アメリカ,中国など53ヶ国は反対。近年30年間で100ヶ国以上の国々が死刑廃止,停止になっています8)

 c. 永遠の教えである十戒
 出エジプト記 20:13 「殺してはならない」(ヘブライ語 ロー ラッツァー)は新約のマタイの福音書 5章21節で引用されています。モーセの時代も「自分たちのために幾つかの町を選んで逃れの町とし,過って人を殺した者が逃げ込むことができるようにしなさい」(民数 35:11)と故意ではない過失,または冤罪に対する処置を神は設けられていました。裁判官は「権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく,神に仕える者として,悪を行う者に怒りをもって報いるのです」(ローマ 13:4),と「神に仕える者」(ディアコノス「奉仕者」)と述べられています。

 最高裁の判事,また皆さんの中から選ばれるかもしれない裁判官であっても,罪と関係がない人はいないのです。私たちのだれもが傍観者ではなく,なんらかの形で加害者であり,加担しています。私たちの内面にも,人を許せないという憎しみの虜になっている現実の罪性があります。聖霊により,憎悪という性向から解放されてはじめていやされます。裁判官に選ばれたからと言って,人を裁く権限はないのです。社会には,いつの時代も犯罪者はいます。いわば「毒麦」です。「毒麦を集めるとき,麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで,両方とも育つままにしておきなさい」(マタイ 13:29,30)。
 決して,マスコミに煽られた二元論的発想ではなく,何が神の義かを祈りながら, 決定しなければならないでしょう。 

<結論>
聖書には,売春婦が「石打ちの刑」になる場面があります。今日でもモーセの律法を守る,イスラム教圏では女性の売春行為は石打ちの刑に相当します。そこへイエス・ キリストがさしかかった時,「あなたたちの中で罪を犯したことのない者」がまず石で殺すように言いました。すると群衆はひとり去り,二人去り,だれもいなくなりました(ヨハネ 8:7,9)。最後に残った女性に,イエスは「わたしもあなたを罪に定めない」,と述べました(同 11節)。聖書から,死刑を容認すると結論づけることはできません。死刑に相当する犯罪であっても,人間が神に代わって,処刑することは倒錯行為になります。つまり,人間が自分を神の座に置く,キリスト以上に自分を高めることです。人の生命を奪ってはいけないのです。

出典

1) マイケル・デイル・ハッカビー[1955-] 2007年大統領選挙に立候補。南部バプテスト牧師。兵力増強論を支持。ジョン・マケインに敗北。
2) アダムは930歳まで生きた(創世記 5:5)。人間は肉体以外に,霊,魂からも成り立っていると聖書は述べる(Ⅰテサロニケ 5:23)。「ベヨーム」文字通り24時間以内に神の目からは霊的に死んでいる。「あなたがたは,以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(エフェソス 2:1)(参照 マタイ 8:22; ルカ 15:24)。
3) 『毎日新聞』 (2004年9月20日付)。
4) 新約の「メタノイア」,旧約の「シューブ」の誤訳が日本聖書協会発行のみならず,『新改訳』にも及んでいる。「悔い改め」動詞(メタノエオー 「変化」+「考える」=「視座を変更する」「否定の論理」(Mr 1:15)。(新約に33回)。名詞形のメタノイア(同 22回)メタノイア(同 22回)には,「罪を悔い改める」というより,因習,伝統,常識という固定概念から180度転換 ヘブライ語シューブ 1075回も同様である。
5) 『リヴァイアサン』(1) (T. ホッブズ 水田洋訳 岩波書店 1992年);『地獄の辞典』(コラン・ド・プランシー 床鍋剛彦訳 講談社 1994年 309頁)。ウィキペディア レビヤタンは,旧約聖書に登場する海中の怪物(怪獣)。「ねじれた」「渦を巻いた」という意味のヘブライ語が語源。原義から転じて,単に大きな怪物や生き物を意味する言葉でもある。Die Herrschaft des Leviathan gl.F.Vonessen SS 1978 p.147-158。
6) 『弟を殺した彼と,僕』(原田正治/前川ヨウ著 ポプラ社 2004年),『キリスト新聞』(2008年4月26日 2頁)。
7) 『聖ヒッポリュトスの使徒伝承』(B.ボット オリエンス研究所 1987年 37頁)。
 Yet Clement’s position was not universal. His contemporary Tertullian, a North African, decisively opposed the practice of capital punishment, claiming that the Creator “puts his interdict on every sort of man-killing” (“On the Shows,” 2). Tertullian was (like Justin) a pacifist who believed that Christians should not serve in the military. In this, he found company with Hippolytus, a Roman priest who urged pastors to deny baptism to any soldier whatsoever. “A military man in authority must not execute men. If he is ordered, he must not carry it out” (“Apostolic Tradition,” 16.9)
8) 『毎日新聞』(2008年1月11日付)。