ブレザレン・カテキズムに基づいて,組織神学に精通します。仏教,神道,
イスラム教,哲学,歴史,他宗教の教理,ヘブライ語,ギリシア語,ドイツ語,
ラテン語などを学びます。 「エラスムス平和研究所」(Erasumus Institute of
Peace Studies Director 岩村義雄)では,平和,非戦,良心的兵役拒否
(Conscientious Objection)について研究します。
1995年に,超教派ブレザレン教会の神戸聖書宣教学校を創立。それぞれ
の神学校の教授たちにヘブライ語,ギリシャ語,教会歴史,教理史などを依
頼。試験はしますけれど,入学,卒業の証明発行はしません。
上記は,受講されている神戸市の牧師がホームページに掲載しています。
エラスムス平和研究所
Erasumus Institute of Peace Studies
「武具を棄てよう arma projicere」
日 時 : 2014年3月24日(月)午後6時半
場 所 : 神戸新聞会館
講 師 : 岩村義雄
エラスムス平和研究所所長
<序> 2013年9月17日,国連の人権理事会が兵役拒否の権利についてはじめて話し合いました(国連欧州本部の国連人権理事会4会期)。「各国に良心的兵役拒否を許容することを検討するよう呼びかける」と採択されました。会に出席した東京造形大学教授前田朗氏は語ります。「第一次大戦時には,イギリスでもドイツでも,兵役拒否者は死刑だった。1000人規模で死刑になっている。第二次大戦時には,懲役刑だった。日本でも兵役拒否は犯罪だった。第二次大戦後,徐々に変わってきたが,第1に,兵役義務のない国家が増えた。アメリカでさえ志願制だ。第2に,良心的兵役拒否を認める国が増えた。「良心的」の解釈は国によって違い,明確な宗教的理由でなければ認めない国もあるが,ともあれ兵役拒否が徐々に認められるようになっている。ミクロネシア連邦憲法には兵役拒否の権利が明記されている。それでも,韓国やイスラエルのように兵役拒否を犯罪としている国もある。」1) 韓国では強制徴兵制度が実施されており,兵役法によれば20歳から30歳の健康な男性は少なくとも21カ月間の兵役に就く必要があり,これを拒むと1年~3年の懲役に処されます。兵役拒否の流れは宗教者だけのものではなくなってきています。
日本のマスコミも,兵役拒否の国連の論議も無関心です。話し合い人権意識が希薄なことや,極右政権により憲法9条すら改正しようとする空気があります。今日は,第二次世界大戦中,徹底的に弾圧されたひとつのグループに焦点をあてながら,平和の重みを考えてみたいと思います。
(1) 歴史的兵役拒否
a. 兵役拒否とは
主題の「武具を棄てよう arma projicere」をまず考慮します。「武具」はラテン語でarma[アルマ]と言い,英語 arm[アーム(戦争用武器の類)]の語源です。「棄てる」は projicere [プロイェケレ]と言います。projicere から英語 project [プロジェクト 投げ出す,放り出す]に派生しています。
西暦314年にコンスタンティヌス帝[コンスタンティーヌ1世 280頃-337年]が開催したアルル会議でも「アルマ プロイェケレ」について議論されています。2)戦時において,「アルマプロイェケレ」した者を良心的兵役拒否(Conscientious Objection)と明確に言うようになったのは第Ⅰ次世界大戦[1914-1918]からです。3)
兵役拒否者(以降,本稿においては「良心者」[英語 conchie コンチ 良心的兵役拒否者 Conscientious Objector カンシエンシャス・オブジェクター] )は,一般的に,宗教上の信念に基づいて,軍隊に入らなかったり,戦争行為に加担せず,他の奉仕などに専念するキリスト者によって知られています。日本では,良心者について暗いイメージが伴います。「兵役義務者が,詐病などさまざまな手段を遣って兵役を免れること。徴兵忌避。」(広辞苑),大辞林では兵役拒否を検索すると「徴兵忌避」になっており,「徴兵制度下で,徴兵適齢者が,兵役を免れるために,身体を傷つけたり,疾病を装ったり,逃亡して隠れたりすること。兵役忌避」と定義しています。
軍事主義と民主主義は異なると判断し,政治,あるいは思想による良心者も第Ⅰ次世界大戦にいました。しかし,社会主義実現のための戦争ならば,従軍することを厭いませんでした。兵役を全面的に拒否したのではありません。英国の独立労働党 Independent Labour Partyの支持者でも二分されました。いかなる戦争も非道徳と考えた党員もいましたけれど,独立労働党員=絶対的平和主義者とは限りませんでした。4)
良心者は,人間として欠陥があるような陰湿なイメージがあります。良心者は国を愛さない者として日陰の存在になります。軍需国家であるアメリカは,ベトナム戦争による激しい反戦運動を経て,徴兵制から志願制に移行せざるを得ませんでした。近年になって,ようやく良心者の絶対的平和主義が認知を受けるようになりました。良心に基づいて,兵役に就くかどうか自由に判断できるようになってきました。日本では,良心的兵役拒否について是か非か論議される機会はほとんどありません。防衛相の経験もある自民党のキリスト者石破茂幹事長は2013年4月に出演したテレビ番組で,国防軍に「審判所」という現行憲法では禁じられている軍法会議(軍事法廷)の設置し,徴兵拒否するなら,「死刑」「懲役三百年」と発言しました。5) つまり日本では,戦前,戦時下と同じエートスが続いています。
b. 初代教会の時代
イェール大学のキリスト教会史家ローランド・H・ベイントンは,「新約聖書時代の末から,紀元170-180年ごろまでには,軍隊にキリスト教徒がいたという証拠はない」と述べました。6)キリスト教徒の墓碑銘から兵士であった者は見出されていません。7)新約聖書の中で,イエスは,軍隊についての隠喩という仕方を用いませんでした。軍隊生活のたとえを一度も用いなかったことから軍務は不適当とみなしていたと考えるのが自然でしょう。8)初代教父のオリゲネス[182?-251]はプラトン主義哲学者ケルソス7)がキリスト教に非難した言葉を記録しています。「もし万人があなたと(キリスト教徒)同じこと(軍務を拒否)をしたならば,皇帝は孤立無援となり,世界の事物は最も不法で粗暴な蛮族の手におち,…」10)。つまりケルソスがキリスト者に対する非難のやり玉に,キリスト者は兵役につかなかったことがあげられています。三位一体という語を哲学との論駁の中で始めて用いたテルトゥリアヌス[150/160-220以降]も晩年,述べています。「信仰に入って洗礼を受けたならば,多くの人がしたように,直ちに軍務を去るか,それとも,軍務に就いていないときでも許されないようなことを神に逆らって犯さないために,あらゆる種類の逃げ口上を言うか,さもなければ最後に,市民の信徒でもやはり受け入れるべき運命を神のために耐え忍ぶかしなければならない。」11)と,キリスト者はいかなることがあっても軍務を拒み,殉教という運命を覚悟するようにすすめています。
しかし,コンスタンティヌス帝[コンスタンティーヌ1世 280頃-337年]の治世以前のアルル会議[314年]の頃には,キリスト教徒の兵士が軍務に服していた記録があります。12)キリスト教がローマ帝国の国教化(392年)に格上げになるやいなや,国の防衛意識に歩み寄るように意識が変わります。宗教が権力中枢と結びつき,妥協していくと,絶対的平和主義の理想は消滅します。正戦(just war,justum bellum)=世俗的戦争論が教父たちによって後押しされるようになります。「侵略戦争からの無力な民の防衛」という大義名分に,教理の裏付けが必要になります。ミサと言う語をはじめて用いたアンブロシウス[334-397]13)や,西方教会の神学の父と言われるアウグスティヌス[354-430]によって,戦争観が180度,変貌するのです。アウグスティヌスは,ドナトゥス主義との論争において,「正しい戦争」があると語ります。14)ドナトゥス主義者の一部が暴徒となってしまいローマ・カトリック教会を攻撃すると,407~417年,アウグスティヌスは一貫して帝政当局による武力弾圧要請をします。
「正戦とは不正を正すところのものと定義されるのが普通である。すなわち,戦争を仕掛けられるべきは,民族や国として,その成員によって不正になされたことをただすのを怠ったり,不正によって横領したものを返却するのを怠ったりする場合である。しかし,神によって命じられた戦争も疑いなく正しい[ヨシュ8:1-2 参照]。神にはいっさいの不正がなく,誰にも起こるべきことを知っておられる。この戦争において,指揮官や参戦者は自ら戦争行為者ではなく,まさに奉仕者とみなされるべきである。」15) 正義の戦争が是認されるようになりました。16)
初期キリスト教の平和主義から脱線しはじめます。5世紀初頭に,「剣をとる者は,剣によって滅びる」(マタイ 26:52)という聖書の教えが曲げられていきます。本来は兵役を否定するはずのキリスト教が防衛行為なら人を殺してもよい神学を作り出します。
グレゴリウス7世[1020-1085]により,聖戦(holy war,praelia sancta)が唱道され,ローマ教皇ウルバヌス2世[1042-1099]は,フランスのクレルモンで,エルサレム聖地をイスラム教から取り戻すため第1次十字軍(1096-99年)を組織します。アッシジのフランシスコ[1181-1226]は第5次十字軍には非難することもなく参加して,戦いの悲惨さを思い知ります。フランシスコによりドイツに遣わされた弟子ジョヴァンニ・ダ・カピストラノ[1180頃-1252]はフランシスコ会を発展させます。聖人カピストラノは外国に対する戦争を奨励します。17) 2世紀半にわたり,「神がこれを望んでおられる」(Deus lo volt)として十字軍のイデオロギーが正当化されます。十字軍遠征が神の意思であるように用いられたのは歴代教皇の責任と言えます。18)
c. 日本のキリシタン迫害の因
スペイン,ポルトガルからのローマ・カトリック教会宣教師は短期間で日本中にキリシタン19)を布教します。戦国時代で価値観が大きく変わろうとしている時代でした。1614年には25万人のキリシタンがいたとする説もあります。20)ヨーロッパではローマ皇帝ネロ[37-68]たちにより弾圧されたにもかかわらず,キリスト者は生き延びました。韓国のキリスト者は第二次世界大戦戦時下,日本帝国の熾烈な統制によっても信仰を維持しました。一方,人類史上まれにみる残虐な迫害下にあって,日本では90パーセントのキリシタンが棄教していきます。なぜでしょうか。19)ひとつに,イエズス会内部の対立・抗争,二番目に,イエズス会と他の修道会との対立があげられます。22)陣取り合戦により,ヒエラルキーを急ごうとする競争意識があったのです。その結果,豊臣秀吉に疑心暗鬼を抱かせます。フランシスコ・ザヴィエル[1506-1552]たちも布教許可を申し出るために,時の権力中枢に近づこうとしました。支配階級を教化するのが手っ取り早いからです。高槻城主であった清貧な高山右近でさえ,仏教寺を廃寺にする方向で織田信長と密約しています。23)政治,軍事感覚の鋭い織田信長,秀吉は日本領土に対する教勢拡張に伴う中傷合戦から警戒感を強めます。ペルー,メキシコ,フィリッピンの二の舞を踏みたくなかったのです。1587年7月24日,秀吉の伴天連追放令が出されました。続いて,1597年には長崎で26聖人が処刑されます。話は脱線しますが,2008年11月まで,バチカン教皇庁は外国人宣教師である伴天連,つまり司祭たちのみを列福します。一方,殉教した庶民について,聖殉教者と認められなかったことはアジア人蔑視と憶測されてもやむを得なかったでしょう。24)
秀吉が弾圧する理由のひとつにカトリック教会内部の抗争が引き金になっていました。1600年にプロテスタントのオランダ,英国が上陸します。イエズス会による日本侵略は陰謀だとの進言により徳川家康の禁令が熾烈を極めることになります。25) 国際宗教である仏教はすでに日本の伝統思想の核になっていました。キリシタンが仏教思想批判をした非寛容な姿勢が禁圧される理由になったことはまちがいないでしょう。26)
(2) 戦争拒否の思想
a. 中世の衝突に抗って
デジデリウス・エラスムス[1466-1536]は「めいめいが論的の面目を葬り去るような毒舌の矢を放ち合っている醜態です。…無辜の人間を殺戮することではなく,人間の心から邪悪な激情を滅却することを目標としているのです。」15)1517年の宗教改革に先がけて,平和主義のカタリ派31),ピーター・ワルドー[1140-1218?]による原プロテスタント運動ワルド派32)がローマ・カトリック教会から異端として弾圧を受けます。さながらカタリ派は小笠原諸島に生息していたアホウドリ Phoebastria albatrus のようです。羽毛乱獲のために人間が近づいても警戒しないので,バカトリとも言われたりしました。ワルドー派もアルプスの白い山が殉教の血で真っ赤に染まるほど,カトリック教会によって弾圧されました。
宗教改革によりプロテスタント教会が起こります。プロテスタントの中で,聖書に基づくキリスト教非戦主義の流れを継承したのは,メノナイト派を起こしたメノー・シーモンス[1496頃-1561]33)やブレザレン派34),フレンド派35)です。聖書に基づく平和主義を貫いていきます。19世紀後半から世界的に通信,輸送,交易が活発になるにつれ,平和,非戦主義,友好の声が消されていきます。
b. 第Ⅰ次世界大戦の頃
1914年の第Ⅰ次世界大戦勃発時には,キリスト者も戦争に加担していきます。「無責任な臆病者」と言われたくなかったからです。一方,ブレザレン派は良心者として行動します。非暴力こそキリスト者の生命線と考えたわけです。
第Ⅰ次世界大戦時において,道徳上,あるいは宗教上の理由で兵役につかなかった人がいます。英国約16,000人(入隊者数の0.33%),米国約56,830人です36)。英国の5人は第二次世界大戦において兵役拒否で顕著なものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)のメンバーです。当時のエホバの証人の多くは第Ⅰ次世界大戦時には参戦していました37)。兵役を拒んだ者に対して,英国は激戦地へ派遣したり,命令拒否について密室の軍法裁判により,当初死刑や投獄を課しました。病により釈放された者はいましたが,戦禍が進むにつれ,獄中にいる良心者は忘れ去られました。絶対的平和主義は現実からの逃避になり,歴史の中ではなす術がなくなります。
兵役を拒否することにより,血を流さなかったことがヨーロッパの民主化をもたらしたのでしょうか。それとも血を流して,独裁国と戦うことによって民主化が実現できたのかどうかエートスは戦争を必要悪と帰着しています。
良心者に軍事行動を強いても組織としては非効率ですし、見せしめに投獄するのもそのためにかける労力も見合わないものです。
(to be continued) エラスムス平和研究所
続き,および出典は 講座で配布します。
「キリスト教と非戦」