東北追悼と復興の祈り

「阪神宗教者の会」東北追悼と復興の祈り 
            Ecumenicity
        期 間 201391~4日

20130822追悼と復興の祈り

『中外日報』(2013年8月22日付) 阪神宗教者の会 Pastor Yoshio Iwamura

    中外日報より 

 

                                                    訪問地: 宮城県石巻市門脇町,千石町,渡波,桃生町,石巻市役所,福島県福島市,二本松市
                                          敬称略参加者: 代表 岩村義雄[神戸国際キリスト教会牧師],副実行委員長 勝村弘也[神戸松蔭女子学院大学教授],事務局長 豊原正尚[浄土真宗西福寺僧侶],五百井正浩[真宗大谷派玉龍寺僧侶],アニース・アハマド・ナディーム[日本アハマディア・ムスリム協会本部長],新免 貢[宮城学院女子大学教授],山田優[浜屋勤務],藤木智代[真宗大谷派専光寺僧侶],北村敏泰[ジャーナリスト],佐藤慎太郎[ジャーナリスト],栫 和彦[(社)神戸国際支縁機構],村上裕隆[神戸国際キリスト教会信徒]  11名

被災地第一日目 時系列
     ① 浄土宗 樋口伸生[西光寺僧侶」
     ② キリスト教会 田畑隆平[石巻ハリストス正教会・聖使徒イオアン聖堂司祭]      ③ 阿部捷一 [(社)神戸国際支縁機構石巻市支所長]      ④ 佐藤金一郎[渡波自主防災部長]      ⑤ 神道 大國龍笙[伊去波夜和氣命神社宮司]      ⑥ 新聞社 「牡鹿新聞」平塚宏行氏
     ⑦ 日蓮宗 谷川正明[法音寺住職,石巻市文化財保護委員長],谷川とし子, 
       谷川海明,智香子副住職夫妻
     ⑧ 曹洞宗 小野崎秀通[洞源院住職],小野崎美紀
     ⑨ 議員  丹野清[市会議員]           ⑩ 女性たち 大島ます子,阿部節子[旧渡波伊勢町婦人会]       ⑪ NPO「日本教育空手協会」理事長 小野寺脩[修空館館長]

被災地第二日目
     ⑫ 曹洞宗 加藤賢宗[浄音寺]            千田豊穂[光厳寺] 
           佐竹泰生[海藏庵] 
           花山智憲[長泉寺] 
    ⑬ 石巻市役所 北村悦朗[副市長],水沼俊宏[秘書課長],佐藤由美[秘書広報],堤[秘書課]        
    ⑭ 議員  庄司慈明[市会議員]     ⑮ 曹洞宗住職夫人 阿部美智子[常円寺僧侶夫人]     ⑯ 曹洞宗 小野睦雄[福源寺住職] 
    ⑰ 真宗大谷派 佐々木道範[真行寺住職] 同朋幼稚園120名
       同      佐々木道昇[同 前住職] 元ボーイスカウト福島県コミッショナー  ロゴ

  「阪神宗教者の会」は3.11以降,月に一度,東北訪問と平行して現地報告してきた。とりわけ宗教者の視点で,霊的な復旧,復興,再建の進捗状態について意見を交わしてきた。仏教,神道,キリスト教会,ジャーナリストのメンバーが中心である。当初,神戸市垂水区の高野山真言宗吉祥山西方院[坂井良行住職],明石市の柿本人麻呂神社[岩林理禰宣]で開いていたが,阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた西宮市西福寺[豊原大成住職,全国仏教会前理事長]が寛大に場所を毎月第四金曜日午後5時~7時まで提供してくださっている。西福寺は18年前,震災で両親と娘を失う体験をしている。東北ボランティアに向かう(社)神戸国際支縁機構のボランティアにも支援している。

 2年半を経て,参加者たちから第1回目の「阪神宗教者の会」東北追悼と復興の祈りを2013年3月に発題された。訪問先,日程,内容について情報交換していく中で,実行委員長を岩村義雄氏,事務局長を豊原正尚氏[西福寺副住職],事務局を西福寺(JR西宮駅北側下車徒歩3分)に決定した。

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 午後3時,お盆関連行事,日曜礼拝を終えた宗教者たちが西福寺に集合した。10人乗り車輌を運転するのは,栫和彦氏である。出納の村上裕隆氏が参加費(交通費18,000円,宿泊費1,000円,保険代400円,食費は自己負担)を集める。車中2泊を含めた質実剛健なプログラムである。名古屋でイスラム教のアニース・アハマド・ナディーム氏と合流する。東北や各地はゲリラ豪雨の様相であるが,四日間,傘をさすこともなく,訪問予定地を巡ることができたのは御仏,神のご配剤であろう。約15時間を経て,2日(月)早朝に宮城県石巻市門脇小学校前に辿りついた。途中の市街地がシャッター通りのままであること,被災地の風景を通して,時間が止まっていることに参加者は釘付けになる。メディアによる復興の華々しい報道とはかけ離れている。津波だけでなく,火災の類焼による激しい被災が襲った跡に冥福を祈る。

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樋口伸生[西光寺僧侶」   樋口伸生[西光寺]僧侶

 午前7時,約束していた樋口伸生氏(西光寺副住職 50歳)がにこやかに一行を迎え出る。西光寺は800人の檀家の内,180人が犠牲になっている。樋口氏は震災直前まで韓国のハンセン氏病院を訪問したりして,帰国したばかりの時に3.11が起こる。渡波2丁目の無量壽庵の住職と門脇にある西光寺を兼ねている。前者は死者1名で現在復興の目処が立っていない。500人が犠牲になった門脇(200人),南浜(300人)の街全体が無人地区になった光景を前に,住職が墓,遺体,住民の生々しい被災体験を語る。母校門脇中学校で1か月間,2千人と共に避難生活している。今は,みなし仮設住まいである。もう寺はだめだから,上京して葬儀屋さんの手伝いでもしようかと覚悟していた。体育館で避難している時にも死者が出ると弔う場面にどうしても出くわす。そこで同じように避難していた坊さんたちと共に,遺体を荼毘に付すため,
山形県や,岩手県一関まで手分けして火葬場に手分けして同行する。一切のお金はいただかない方針である。おにぎりひとつ,オプションにチョコレートくらいで務めを引き受ける。今までの人が死んだら,お金のことでみんなに心配かけたから,恩返しというわけである。お墓も祈願もすべてただでやった。陰徳を積むゆえに,人に知られないように施すことが大事だけれど,被災地において無料でしていることを聞かないので,あえて言わしてもらうと述べる。「慢心していた人が亡くなった。チリ地震(1960年),「宮城県沖地震 M7.1」(1978年)を体験している世代は石巻で一人も亡くならなかったことで変な自信があった。家族の誰かが逃げようとしたら,『逃げなくていい』と言いつつ,自分だけが生き残ったりした方の衝撃は大きい。」「お父さん,これからどうするの」と尋ねると沈黙している。「お父さんから,『悪かった』という言葉を引き出したいのです」と心に思っているだけではなく,あえて公然と謝ることを求める。「お祈りして,一生を暮らしたい」と本人が言うのを待つと証しされたのは宗教者たちにも衝撃でした。「お父さんだけが居残っちゃって,お 母さん,お嬢さんたちはあっちの世界に行ってしまっているけれど,お父さんのことは悪いとは思っていないから,自分は一生懸命暮らすからあっちではお二人のことを仏さんにちゃんと守ってもらって楽しく暮らすんだとお祈りするんですよ」と生きている間拝んでいくように勧める。「70,80だからあとどれほど生きられるか分からないんですが,これからの余生は茨の道だと覚悟させる」ということが自分の仕事として始まりました。津波は家々をなぎ倒しながら,海岸線から約1キロの境内に押し寄せた。約千基あった墓石は一部を残して壊滅状態となり,大量の土砂とがれきに埋まった。埋葬されていた遺骨も周辺に散乱した。本堂や2階座敷には約90の骨箱が保管されている。弔いに際しても,一切のお布施をいただかなかった姿勢に打たれる。棺の数が不足していること,墓などのがれき撤去の際,重機でめちゃくちゃに散乱してしまった痛恨をふりしぼるように述べる。死者を特定できなくなってしまったこと,病気や老衰などによる自然死ではないため,行政が焼き場を用いることを拒んだため,津波で腐乱した遺体を荼毘に付すことができず断腸の思いであったこと,信者である檀家を含めて,1軒おきに死亡した近所の住民の「だいじょうぶだべぇ」という過信が犠牲者の数を大きくしたことなど,怒濤のように流し出す。
 寺の土地の一画に,宗教を超えて,心の平安を願うモニュメントを造る計画に参加者のみんなが賛同する。9月25日以降,遺族会などが植木を手入れして,宗教を超えてお祈りしていきたいと考えている。葬式でもお経も漢文ではなく,現代の口語体文に書き換えている。仙台からかけつけた新免貢氏も惜しみない協力をすると発題する。地盤沈下のため,かさ上げする方針ですが,すると,寺が見下げられるという危惧についても樋口氏はこだわらない。今まで寺は敷居が高かったのだから,低くなるのが当然ではないかと考えている。県単位で一箇所ずつ,門脇でもメモリアルパーク構想は商魂たくましいからどうかと首をかしげる。

西光寺

 死者に対しての敬虔な思いと,生ける者の真摯な決意に基づいて,一区画の森を作り,サブとして複合的な施設を造ろうという計画を打ち明けた。どんな花束よりも,最初に来た人たちが涙して苦縁を築く場にしたいと語る。鎮魂(魂を鎮めることについて,水で死んだ遺族にとって,鎮魂には抵抗がある),慰霊(慰めるという概念になじめない人もいる)という視点ではなく,追悼とか,記念がよいのではと遺族会や他の宗教者たちと話し合っている。色々な宗教の言葉を散策で見出し,いかに人生の中で宗教性が大切か覚醒するモニュメントにする。森に十字架を運び込むことを約束したり,協力することを話し合う。

 アニース師ハリスト正教会

 田畑隆平司祭とアニース・アハマド・ナディーム本部長[日本アハマディア・ムスリム協会]

 石巻ハリストス正教会を11時に訪問。たくわえた髭,猛暑にもかかわらず聖衣を来て,迎え入れる田畑隆平氏(35歳)の姿勢は若さを決して見下げられない落ち着きがある。会堂にはだれも信者がいない時間帯であるが,独特の雰囲気が充満している。1873[明治6]年に禁教令の高札が取り除かれても,明治政府は1899年までキリスト教の宣教を公式には認めていなかった。しかし,ニコライ・カサートキン[1836-1912]は日本語のみならず,国史,儒教,神道,仏教,風俗習慣を学び,国漢の読書を修得。「不拝偶像而可拝独一真神」(偶像を拝さず,独一の真神を拝す可し)日本基督公会「公会定規」[1872年]。明治のプロテスタント,ローマ・カトリック教会は鎮守の祭礼を攻撃する熾烈な伝道を行って拒絶され,農村を離れたが,ハリスト正教会は日本の伝統文化を重んじ,排除的な姿勢をとらなかった。そのため,1877年,宣教師が8千人を超えるプロテスタントの組合教会1万3627人(70教会),日本基督教会1万2441人(67教会)に対して,正教会はわずか3人の宣教師で2万5231人(170教会)の信者数に増えたことは知られていない。日本の木こり,漁師,農民に根付いたからである。プロテスタントやローマ・カトリック教会は元武士階級など,知識層に受け入れられていったのとは対照的である。

田畑隆平司祭

田畑隆平[石巻ハリストス正教会・聖使徒イオアン聖堂司祭],阪神宗教者の会代表 岩村義雄 Pastor Yoshio Iwamura,豊原正尚[西福寺副住職],アニース・アハマド・ナディーム[日本アハマディア・ムスリム協会本部長]。

 「キリスト」とは言わずに「ハリストス」と言うのはなぜかの問いに対して,「ギリシア語のクリストースはXで始まりますが,ロシアでは「ク」と発音せずに『ハ』と発音するからです」と田畑氏は柔和に説明する。「イコン」を用いるのは偶像崇拝ではないのかどうかの問いに対して,「100年ぐらい論議されて,天国の窓として,神であるキリストが人として来られたのだから,目に見える似像,イコンとして用いるようになりました。生神女マリアの服は外が青で中は赤になっているのは,青が神秘を表すことに基づきます。イエスが生まれたのは馬小屋ではなく,洞穴の飼い葉桶で生まれたと信じています。」信者は会堂に入る際,ろうそくを購入して,灯して礼拝するのが習慣である。明治以降,最大の弁護士と言われる布施辰治が石巻ハリスト正教会の信者でした。60戸の信者を擁するが,震災で3人亡くなり,現在,5,6人の信者しか日曜日に来ていない。「年配の信者さんに説教じみたことはなかなか言えませんが,神様に希望を置くように語っています。」
 田畑氏がNHK大河ドラマの八重の桜で登場する剣の達人,坂本龍馬のいとこがニコライを暗殺しに行って,ミイラ取りがミイラになる証しをする。最初の宣教師沢辺琢磨の転向談に耳を傾ける。
 石巻市文化財指定である中瀬にある旧会堂に案内してもらう。JR石巻駅から徒歩13分の石ノ森萬画館の隣に建っている。漆喰塗の外壁が津波で損壊したままである。スクリーンに囲まれている。危険ということで二階には5人以上上がられないからである。天門の上部のロシア風のアーチが珍しいと田畑氏は言う。ビザンチン式と日本古来の建築が融合している。現存する木造教会としては国内最古,1880[明治13]年に創建された。今後,どこに移転するかまだ決まっていない。

聖イオアン会堂

聖イオアン会堂内部

津波で全壊になった石巻ハリストス正教会旧会堂内部 石巻市文化財

 渡波地区に向かう。漁業,水産加工,牡蠣や海苔の養殖,海産物の採取など,海に携わる仕事をしている人たちが住んでいた地域である。地元の二人と親しく会話する。阿部捷一氏は2011年7月,牡鹿半島の聞き取り調査の際,案内してくださった。船越,名振小学校を歴任した元校長である。「希望の灯 船越小学校とともに」(坂本忠厚ら教師発行 2013年)参照。穏やかな気質で,30回近く訪問している阪神からの若者たちにいつも語り部として震災時の体験を伝える。佐藤金一郎氏夫妻も温かく迎え入れるので,石巻と兵庫県の縁は強いものになっている。

仏教,イスラム教,神道,キリスト教が和やかに追悼

大國龍笙宮司

左から豊原正尚[浄土真宗西福寺副住職],アニース・アハマド・ナディーム[日本アハマディア・ムスリム協会本部長],大國龍笙[伊去波夜和氣命神社宮司],神戸国際キリスト教会牧師 岩村義雄 Pastor Yoshio Iwamura,五百井正浩(真宗大谷派玉龍寺住職)。 

大國龍笙宮司a

左岩村義雄氏,新免貢氏,三番目 北村敏泰氏[ジャーナリスト],四番目 勝村弘也氏,
アニース氏,大國龍笙宮司,豊原正尚氏,五百井正浩氏,山田 優氏。

 「渡る波」に由来する渡波の少し高台に「波が去る」にあやかる伊去波夜和氣命神社に向かう。境内のベンチでおにぎりなどを食べる。快適なレストランで食事をしても被災体験の共苦を味わうことはできないという代表の思惑である。神社の宮司大國龍笙氏はボーイスカウト石巻第7団に属し,元宮城県コミッショナーでもあり,青少年教育に仕えていた。津波は「3方向から津波が押し寄せて,ちょうど神社の境内で3つの津波がぶつかりあい,渦巻き状になった。」「境内だけでご遺体11体。神社から海側への道路で200体のご遺体が見つかりました」と宮司は言う。避難場所として「地震になった時,お明神さんに逃げろ」と昔から言い伝えられていた。渡波の砂丘の平地では一番高台であり,石垣と松の木々に守られている神社である。250人が社殿にぎゅうぎゅうに避難。「神様だから流れなかったのか,みんな載って重かったから流れなかったのだべ」と述べる。社殿以外の神輿庫,社務所は津波によって倒壊した。周辺の氏子区域も壊滅状態である。「震災時の神社の果たす役割は何ですか」という問いに対して,「昔のままで元のままにしたいが目標です。」社殿も持ち上げて,元の状態に戻そうとしている。「生まれ育った渡波から離れて,都会に行った人が故郷に戻ってきた時,“元のままだな”と言ってもらいたいです。」と。鳥居も全国からの支援で復旧するより,よそ人ではなく地元でなんとか建て直す計画である。有名な神社でない地元の人たちしか参拝しない神社である。懐かしいのは気を置いておくからである。「3.11もそろそろ忘れられてきている。忘れられないようにしてほしい。日本人はのど元過ぎれば…とありますので,10年経って,あの時の地震たいへんだったね。あの時の津波たいへんだったねと,言葉がもらえるのが一番いい」と淡々と語る。5月5日に,春祭りとして,境内にたくさんの鯉のぼりを立てた。氏子総代を集めて祭典を行う。雄勝町からの鍋やまんじゅう,赤飯,くずかけを地元に振る舞った。8月9日にも境内で「明神社奉納相撲大会第23回石巻わんぱく相撲大会」が行なわれた。震災復興における神社の役割と神職の使命について教えられる。

  「牡鹿新聞」社に立ち寄り,平塚宏行氏から震災時の苦労談を聞いた。86歳での記者である父平塚俊夫氏が現役で取材している原稿の走り書きを拝見した。すべて外部発注せずに取り組んでいる。

 牡鹿新聞平塚宏行氏

記者魂で熱心に質問するジャーナリストの北村敏泰氏,佐藤慎太郎氏。

 日蓮宗の法音寺は渡波の檀家が住む地域の避難場所になった。約200人が命をつなげるように本堂のテーブルや椅子をどけて100人,50人は車の中,他の50人は山を越えた場所での共同生活を始める。とし子夫人の父親(86歳)も犠牲になったが,家族の捜索より,避難してきた人々の食事などの世話に専念する。

 渡波一望法音寺

   渡波が一望できる法音寺 佐藤慎太郎氏取材。

 悲しむ配偶者を慰める時間もないほど忙しかった。ライフラインが途絶えたが,先代から度重なる津波被害などを寺には米100キロ,水1トンが備蓄してあったので,機能を果たした。車が使えないので,病院に連れて行くことができない。「逃げまどう中で,『助けてくれ!』と言う声を聞いても,黙って生き延びた人々の心の傷というか,消せないものがあるんです。夜,眠れないとか,うなされる人もいるのです。」寺は100ヶ日に,卒哭忌(そっこくひ 泣くのをやめる)としてピアノコンサートに250人が出席し,涙を流し開いた。谷川氏は来月で,100回目を迎える「石巻弁」(石巻日日新聞 第1,3月掲載)や,CD「おらがラジオ体操」を発行し,評判である。とし子夫人(57歳)はサバイバル100日の体験を語る。「避難所がいつ解決するか,先が見えない不安でいっぱい。夫にぐちを語る時間もない。竈(くど かまど)でご飯をたくにも水をどうしよう,おにぎりを作るにも悩む時間もなかったですよ。午後2時になると,夕飯を食べさせておかないと,電気がないから暗くなるのが早く,4時には寝るしかない。」訪問した前日に結婚したばかりの息子海明副住職は震災復興の組織を立ち上げたりした。とし子夫人が30代で嫁いだ時,檀家は150件であったが,今は400ほどになっている。「この近辺は曹洞宗の牙城であり,日蓮宗が生き残るのは大変なのです。」「排泄処理がたいへんでした。男性はみな外。女性は用を足したら,ビニール袋に入れてもらいます。一番,困るのはボランティアや外部から報道陣などが来て手洗いを借りたいという時です。持って帰ってもらうように言えませんから。」「被災地に入る際は,自分たちで簡易トイレを持って行って,自分たちでちゃんと処理するマナーが大切です。」阪神・淡路大震災時に避難場所になった玉龍寺はわき水を利用して水洗トイレだったため,近隣の学校の生徒たちが殺到した。障がいをお持ちの方は和式が使えないので,腰掛け,手すりを作って,対応したと苦労談を分かち合った。「寝たきりの人,認知症の人の世話には神経をすり減らしました。」と夫人は言う。どの宗教であっても女性の力がなければ難局を乗り切れない悲壮な体験があることを忘れてはならないだろう。

日蓮宗慰霊塔
 谷川住職が大宮地区にある慰霊塔に案内。2013年3月11日に開眼法要がなされた。

      洞源院     小野崎秀通住職     丹野清市会議員

洞源院

 渡波の高台にある曹洞宗洞源院に地元の大島ます子さんと向かう。「18年前の阪神・淡路大震災に駆けつけた経験が役立った」と「津波に襲われた近隣の祝田,佐須浜の被災者が駆け込み,約400人の避難所になった。」「だるま式ストーブ15個ほどあり,逃げてきた人々が暖める。震える人々に約100枚の毛布,寺が中高校生の部活動の合宿に使われていたことが幸いした。一週間,支援物資は入って来なかった。温かい玄米粥があった。紙コップもないので,水がもらない紙製の朝,晩にうがい用の簡単なコップを作ったりして,サバイバル。避難している人々のラジオ体操は非常に理想的な健康法が役立った。サンファン館の収容している避難者も食事を提供してきた」と語る。難題の一つがトイレだと述べる。浄化槽は30人用であり,400人は無理だからだ。「公民館,渡波小学校では,炊き出しができなかったので,寺にご飯の時に人がやってきた。毎朝のミーティングで,説法を語ると,親族や友が亡くなっているので,一緒に祈ると安らぐ。今でも仮設住宅からやってきます。」「いまだに見つからない遺体のため,納得できない人もいる。船で遭難した場合もご遺体は普通見つからないように,今生きている限りは前向きに生きていかねばならないから,一周忌とか区切りをつけて供養していくようにしています。」 西宮の豊原正尚氏が「広島の原爆資料館に一度も足を踏み入れていない被爆者もいます。阪神・淡路大震災で自分の寺でも70人が亡くなりましたが,やはりいまだに寺に来ない人もいます。そんな方たちのためにどうなさっていますか。」と尋ねる。「津波の場合,来たいけれど来れない人もいます。寺に来るのに川を渡って来れないのは水を見るのがこわいからなんです。漁師にとって舟は命ですが,舟を守るために沖に出て助かったが,戻ってみると,街は津波でだめになっているから,心を閉ざしてしまって,地域の人と一切接触しなくなってしまった人もいます。家族や親戚ですら面会を拒否しますから,私たちが行っても会ってくれません。時間をかけながら訪問するしかありません。」そんな心の復興が必要な中,5月には花祭りし,8月7日に,洞源院の避難所は解散式をした。10人足らずが残っていたが,避難者と寺の互助組織「洞源院叢林(そうりん)舎」を発足させ,お茶会,バザーを始めた。5ヶ月間の避難生活の中で,美紀夫人が「あったかい手」を出版。すでに2万部発行しており,英訳もされている。「だんだんボランティアは小規模になっており,大型ダンプが小回りが効かなくなるように,大きな教団,教派に依存するのはむずかしい。大きな組織より,こじんまりと小さな支援活動の方が地道で助かりますね。」「組織には限界がある。立ち直る自信はないし,生きる自信もない,力のなさを感じます。時間が解決するというな,なす術がない。」洞源院の役割は,亡くなった人の冥福を祈ると共に,将来の渡波を担っていく子供たちのために保育園を計画している。9つの市の保育園の職員は移動。渡波に2箇所の90人規模の保育所があった。どちらもなくなった。長浜幼稚園は流された。渡波中学校は廃校になり,渡波小学校も来年まで再開できない。保育園を建てて,待機児童が少ない地域に将来を担う子供たちを育てたい。子供のいない街に将来はないからであると,熱く語る。
 洞源院に案内して,場面を設定した丹野清市会議員は言う。「震災後,自殺も見逃すことはできない。割腹自殺,ノイローゼ,酒を飲んでしょっちゅうけんかして,警察も手に負えない。心がすさんでたいへん。仮設住宅では家賃はかかりませんから,復興住宅に行かないよ,というのはお年寄りに多い。国は復興より,前の通りに作りなさいと言う。小学校にしても改築するにしても40年前の状態では,和式トイレですよ。洋式するには自前でやりなさい。復興庁というより査定庁という感じです。オリンピックを引っぱってくるというなら,被災地が活発になるには生活するところと学校があれば戻ってくるように戦っています。前住んでいた人たちが半分以上戻って来るように願っています。」

 大街道の「元気の湯」という天然温泉で前夜の車中泊,コンビニでの軽食,人酔いするほど多くの宗教者たちとの対面での疲れをいやした。石巻ではじまった焼きそばを食べる参加者もいる。勝村弘也氏は次回には面会する人をしぼった方が良いと提案する。

 三陸道が通行止めのため,下道を走るが,街頭も少なく,人を見かけない夜道だから,目的地への道を確認したくてもできない。ナビゲーションもわかりにくく,不安になるが,栫氏の賢明さによって無事に桃生町の宿舎に到着する。

 修空館館長は宗教者をもてなし,震災時の恐怖体験を話す。道場を仙台から広域に持っていたこと,「パソコンの部屋にいた時,5分以上も揺れていた状態でした。電気,電話は通じない,ないないづくしでした。海岸,沿岸地帯でとんでもないことが起きていることがわかってきました。夜空は群青色でした。太極拳の弟子の内,20人近くが津波の犠牲になりました。沿岸部の方へ行くと,人々の目がぎらぎらしていました。海外の報道では秩序正しい民族で,配給もちゃんと列を作って待っていると書かれていますが,現実は違います。キャッシュレジスターなどは壊されたり,限界のおぞましい姿が見られました。全国から来てくださる皆さんの思いは,南海トラフが起きたりしたら,今度は石巻から出かけて行くようになると信じています。」

  2013年93()

 朝6時起床。「きれいに感謝を残して」というボランティア精神で掃除に専念する。
 昨日のように,コンビニでおにぎりなどを購入して,車中で食べてから,桃生町の曹洞宗浄音寺に小野寺脩館長に案内してもらう。
 行くと,壮絶な被災体験をした他の3人の住職も同席している。自己紹介の後,ひとりずつ震災時の働きを話す。

浄音寺a

浄音寺 中央が加藤賢宗住職,左隣が千田豊穂住職,佐竹泰生住職,花山智憲住職。右 阪神宗教者の会代表 岩村義雄 Pastor Yoshio Iwamura,勝村弘也[神戸松蔭女子学院大学教授]。2013年9月13日。

 浄音寺 中央が加藤賢宗住職,左隣が千田豊穂住職,佐竹泰生住職,花山智憲住職

 加藤賢宗氏は曹洞宗浄音寺 3.11の時,ライフラインが中断し,沿岸部の情報はここ桃生町には入って来なかった。「ひとりのおばあちゃんが余震でこわいと言われるので,お寺さに来て,いっしょにおりましょうと連れてきたんです。ところが建物の中でもこわいから,駐車場の車の中へ移動していただき,毛布二枚ほど持ち込んで,夜も共に過ごしました。翌日,社会福祉協議会と連携し,民生委員として,子供たちの履き物などを準備し,週毎のローテーションをこなすわけです。何かをしてあげるではなく,させていただくようにしました。」内陸ですから,こちらから沿岸部に嫁いで行った方や,仮設住宅,みなし仮設のボランティアをしてきました。

 加藤氏は話の中で出てきた同事(どうじ)の修行は「四摂法」(道元『正法眼蔵』1231-1253年)と説明。「同事」。相手のことを思い,相手と同じ立場に身をおき,行動を共にすることだとボランティアの精神に適切な言葉である。

 千田豊穂氏[光厳寺住職]は震災当時宮城県第12教区長(河北地区[雄勝,桃生,北上,河北]に曹洞宗の31ヶ寺25人の住職のまとめ役)であった。他に浄土宗は2ヶ寺ある。被災した寺は9ヶ寺。全壊は5ヶ寺,教区寺院住職が2人,寺族(じぞく 住職の家族)が1名亡くなった。「余震にしても止むのを待つしかない状況でした。石巻の情報は三日後ほどしてから実態が分かってきました。大川地区や北上地区へ行こうとしたら,途絶していました。飯野側中学校体育館に僧職者たちも避難していました。」「石巻市稲井地区と河北地区にまたがる標高468mの上品山(じょうぼんさん)に143体の遺体が仮埋葬された。まだ遺体が見つかっていない例もあります。数ヶ寺が避難生活を送っています。火葬場は当初病気などの自然死した人以外は受け付けず,その後も一日に25~26体しか荼毘に付すことができないので,とりあえず仮埋葬,つまり土葬にしました。火葬は遠隔地である山形県まで遺体を運ばざるを得ませんでした。仮埋葬の読経に1ヵ月半くらい教区のお坊さんたちが動きました。苦労したのは移動に必要な油です。役所にお願いに行っても,自分たちで確保してくれと言われる始末です。青年会,婦人会は炊き出しなどおのおの自分で気づいたことでせざるを得ませんでした。被災した僧侶は法衣がなくて困りましたし,寸法が合わないなど3ヵ月は夢中で過ごしました。」石巻市立大川小学校の合同供養式が四十九日に当たる2011年4月28日に行われた際,千田氏は僧侶の代表として読経した。「生き残った人も一日も早く安らかな気持ちになってほしい」と祈った。「今の若い人は土葬がをいやなんですね。高齢者は土葬に抵抗はないんですが,…火葬の時代ですから,若いお母さんは子供を土葬することは耐えられないんです。枕経(まくらぎょう 死者の枕もとでする読経)をするお務めに被災したお坊さんたちは悲しみをこえて頑張りました。どさくさにまぎれて当初の混乱期に聞いた話では,一例だけですが,ぼったくりの葬儀屋さんも出て,50万円請求されたと聞きました。

 「マスコミさんには話していないこともあります。大川小学校のPTA,すなわち遺族会があります。子供たちの供養をなんとかという相談に頼みに来られました。大川地区のお寺さんは全部で7軒(1軒は浄土宗)あります。兼務されておられるところもありますから,和尚さんは5人です。四十九日の法要をする際,報道陣は一切シャットアウトにしました。その後,百か日もマスコミには来てもらいませんでした。一周忌,三周忌と務めさせていただいたわけですけれど,腹を痛めたお母さんたちは男の人たちとちがって,何かしないと落ち着かないということで西国札所巡りをなさったり,写経をされるのです。いま当寺で10の付く日に何人かの人たちが来て写経しています。実際,震災のことは話さないようにしています。ただ写経して帰るだけです。今年の春先ぐらいから,子供を見つけた状況のことをやっと話せるようになってきたんでしょうか。物事は供養することしか手に付かない。琴線にふれるちょっとしたことで泣きますし,…,だからあまり震災に触れないようにしています。向こうが話すのをただ聞くだけですね。大学の先生方の調査,NHKさんの被害調査がありますけれど,みなさん,あれは出さないことにしようと,申し合わせたように言われます。大川小学校の児童生徒の名前が書かれた碑文の前で,ピースサインをして写真をとる無神経な態度を親御さんは一番いやがるのです。」

 

 大川小学校より海寄りの長面(ながつら)の集落は50戸ある。津波により海面下になった。全滅になった地の海蔵庵の佐竹泰生住職が語る。「震災の年の2月に川崎から戻ってきて住職になったばかりです。ちょうど2時46分,地震が来ました。寺に通じるところで階段を作ろうとしていた時です。沖の方に山みたいものが見えました。入江の中から見ると真横から見えます。山だと思っていたら波なんです。浜に何万本も植えてある松の木を乗り越えた10数メートルが襲い出します。あわてて『逃げろ!』,お寺は傾きましたが,本堂はなんとか残りました。すぐに暗くなって,あの日は寒くて,雪が降っています。大人5人,子供5人が犠牲になり,今も行方不明は大川小学校のお母さんと子供さん1名です。石油ストーブが三つあったので,お年寄りや子供が暖を取りました。道路,連絡もだめでした。三日目になると,寺は100人ほどになりますが,食べるものはないし,だれも助けにこない。今まで田んぼだったところが深さ2,3メートルの海になっています。舟でなんとか大川小学校がある大川,釜谷地区付近に行ってみると,遺体がごろごろしているんです。『うちの子供はだめんなんです』と言う親御さんたちがいたり,亡骸を出している人たちもいる。3日目ですが,警察も消防もどこから手をつけたらいいか,わからない状況でした。炊き出しのおにぎりを持ち帰りました。ヘリコプターも着陸できませんから,ホバリングしたままで,下からつり上げるしか救助方法はなかったのです。初日は40人くらい,翌日,震災から4日目に残りの50-60人がつり上げてもらいました。犬とか猫は航空法の関係でゲージに入れないと運べませんでした。国際法で禁じられていると理由を聞くと,『じゃ,私は残る,…オレも残る』と言い出す始末です。そこで,『私,残ります。えさをやっときます』と言ったら,皆さん,運ばれることに同意され,独りだけ残ることになりました。6日目にヘリコプターが来たので,『あなた何をしているのですか』と海上保安庁に聞かれました。ビッグバンに降りて,避難所に入りました。家も喪服もないから,お葬儀はできない状況でした。『お骨を預かっていただけますか』と120-130体を地区に預かってもらったりしました。お寺は住んではいけませんということで,仮設住宅にいます。檀家さんも同じ仮設住まいです。コンビニをお譲り受けして,本堂にしています。集団移転して新しい地域に住むのは,早くて2017年末,つまり平成30年頃になります。家に入れるのは翌年です。物資とかお金の支援も助かりましたが,住職としては,被災した皆さんと同じところ,位置にいるのが大切なのではないかと思います。いっしょにいるだけでもだいぶちがうと思います。避難所で何十もの遺体を見てしまって眠られないんだ,と本当に泣きたくなるときにそばにいるというだけでちがうんです。全国から棺桶を集めたんです。最初はブルーシートを切って,ボディバッグの代用にしたんです。」

「行方不明の子どもさんの親は仕事を辞めて,毎日,今も探しています。5時まで探すのですが,3時の休憩の時,『もう帰りましょう』と言われました。なぜなら『取材されたくない,話したくもない。』」と言われるのです。最近,遺族にとってつらいのは,ホームページで大川小学校を検索すると必ず幽霊の話が出てくることです。実際,

『夢ごごちでいる時,孫が出てきて,話をしたという言う人がいるんです。遊んでいたんだけど,これはどうなの』とか尋ねられます。供養もしていないから成仏していないという霊媒者もいたりします。」

 花山智憲[長泉寺住職] 父は市役所の職員,総合支所に勤務,税務の長であり,役場で亡くなった。「北海道の小樽のお寺で修行中でしたが,震災の時,すぐに電話して1回だけ話して,その語通じなくなりました。翌日,何百回も電話して,父について行方不明捜索を依頼しました。仙台空港の臨時便もなく,新潟へ行って,バスで仙台に向かいました。復興車輌以外は,三陸道も通行止め,給油もできない状態でした。3月26日に,父が真っ黒で亡くなっていることがわかりました。4月7日に,大きな余震によって寺も損壊しました。

 浄音寺

後列右端が小野寺脩館長,隣が村上裕隆君,前列右端が山田優氏,
左端から時計回りに 加藤賢宗氏,千田豊穂氏,役僧,佐竹泰生氏,花山智憲氏

午前11時,石巻市役所表敬訪問。亀山紘市長は出張のため,北村悦朗副市長があいさつ。全文。

 皆さんおはようございます。昨日は埼玉県越谷で竜巻が発生しているようでして,日本の家屋,地震には強いなあと思っていたのですが,津波には全く弱いということを2年半前に知ったのですが,竜巻にも弱いんだな,という気がしまして,なかなかこの頃,天候不順と言いますか,異常気象と言いますか,これも地球温暖化の影響かなと思ったりもしています。
 大震災から2年半が経ちまして,いろいろご支援を頂いたあの頃というのは,何もない,情報も含めてですね,水もない,寒さをしのぐ場所もない,ないない尽くしから大分,状況は変わってきてると思います。

北村悦朗副市長   北村悦朗[副市長]

 で,今,私ども一生懸命やってますのは,終の棲家と言いますか,最後までですね,自分の生活をしていくための住宅の提供ということを今,一生懸命やってます。集合住宅だったり戸建てだったりするわけですけど,現在,いわゆる仮設住宅,あるいは民間のアパートなんかを借り上げる,みなし仮設住宅住宅というのとありますが,それで1万4千戸,世帯の方がそういう状況にありますので,早くですね,しっかりした住宅にお入り頂きたいということを,一生懸命やってます。半島部では当然,高台へ移転ですし,この市街地部では津波に備えてですね,奥まったところに今,大規模な住宅団地を造成しようということで,大分,工事が着手したのもございます。まあ,そういう状況です。

 一方で,じゃあ被災した場所どうするのかというお話しもございまして,当然そこには働く場というのが残ります。あるいは,一部公園化したりしますけど,人は,するわけですね。そういった方々に,また津波来たときにどういうふうに安全を確保していくか,安心安全なまちづくりというのは,やっぱり,極めて大事なテーマだというふうに思います。そういった面で,今年度は避難タワーを一部に造りますし,あるいは民間の,,避難ビルとして若干のお金を差し上げながら,そういった機能を持ったビルを建てていただくとか,更には,今までずっと,本当に我々,手抜かりと言いますか,避難道路というものの整備が遅れてたな,と。東西の,海岸線に平行に走る道路というのは結構,幹線道路として整備がされてたんですけど,南北ですね,海から津波が襲ってきたときに,内陸に逃げる道路というのが比較的手薄だったということも反省いたしまして,そんなところもこれから一生懸命。当然,防潮堤,高盛りの道路と言うんですかね,道路兼防潮堤のようなものも造らなければいけない。

 そういった様々なことを仕掛けてますけど,本当に,もう一つの問題としてはソフトの問題,心の問題と言いますか,2年半も仮設住宅に入っておられますと大分,心が荒んでしまうというところがございます。で,当然お年寄りの方が多いですし,中にはお一人でお住まいになってる,近隣の皆さんとの接触がない,方がいらっしゃってる,そういった方々が生活習慣病にどんどん陥ってしまう,そういった面でですね,私どもも,いわゆる地域包括ケアシステム,これをモデル事業として仮設住宅,かいせい地区の一番大きなところでですね,モデル事業をやりながら,どうも,地域包括ケアシステムというのは単に医療,福祉,介護,保険,だけの話ではないらしいんですね,もっと大きなまちづくりと言いますか,あるいは支え合う社会づくり,そういったものが根底にありませんとどうも機能しないという指摘もございます。そういった面でこの被災をされた方の心の健全を保ち,保って頂きたいと,こういった仕掛けもやんなきゃいけない,というふうに思ってます。

 インフラのハード整備と,やはり,心を平穏に保つためのソフトの部分が両方ないと,やはり,こういったとんでもない災害が襲ってきたときには,しっかり保つ二本柱なのかな,というふうな気がしてます。

 今日はそういうことで,ご説明すると思いますけれども,是非,ご参考になすっていただいてですね,是非,今後,まあ襲って来てほしくないこの地震,津波,皆さんのお力添えを賜ればというふうに思います。本当に今後ともひとつ,よろしくお願い致します。今日はどうもありがとうございました。

二日間にわたる石巻市訪問を終えて,福島県に移動する。

五百井正浩氏が一行に遅れたのは,藤木智代氏(9月2日渡波で約10名に靴下の編み方を教示)計画があったためである。合流して福島県に向かう。

 道中,北村氏の提案で,急遽,福島市の常圓寺に入る。境内の高い樹木の枝,葉が地表近くにないのに驚く。あいにく阿部光裕氏[通称つるりん和尚]は不在のため,美智子夫人と小野睦雄氏[福源寺住職 46歳]が丁寧に案内,説明してくれた。常圓寺の敷地内には,二箇所の仮置き場がある。ブルーシートをめくると,除去した枯れ葉,土が入ったビニール袋がある。線量計が24の数値を示す。袋に直接,計器を置くと,数値は高い。1メートルほど離すと,1μs/h前後まで下がる。数センチ,数メートルの距離で,線量が大きく変わる。福島の天気予報は線量数値が発表されるが,「地表1メートルだから,意味がありません」と小野氏は語る。イノシシも捕まえて放射能の数値が高くて食べることなど到底不可能である。

線量計a

 

 周囲に何もない次の場所へと登る。密閉して保管しているドラム缶が並んでいる。福島市内を一望にできる美しい場所なのに,息が詰まる。大地の恐怖がつまった黄泉のえぐりとられた埋葬場所だからだ。水泳プール二つ分,重機で堀り,粘土質の底にシートを敷き詰めようとしている。

常圓寺処分場

 市内から超マイクロスポットの土をとって来た線量の高い「死の土」をドラム缶から黒い入れ物に移し替えている。積み上げるためである。延々と続く最果てのない作業により,運び込まれている。除染研究会は薬を処分する小さなドラム缶は1個8千円する。「福島市の大浪地区は,当初,耐久性の弱いビニール袋に入れていたが,汚泥が出ていたりします。もし絶対に漏れないと自信をもって言える国会議員がいるなら,議事堂前へ運んでから発言してほしいものだ。研究している東京大学にも運び入れるべきです。仮置き場と言われるが,何年も無制限に置かれるのではと心配する住民もいます。」と平素,穏やかな小野氏の口もとが引き締まった。

小野睦雄

 原発事故後,全国からのボランティアを受け入れ,気が遠くなるような除染活動を率先している阿部和尚は除染活動をしながら,行政がやる前に,寛大に敷地を提供している。小野氏は線量が高い土を,人気のない所有地の一角で一時的に預かっている阿部氏と連携している。

 最後に向かったのは五百井氏が何度も足を運んでいる福島県二本松市の真行寺[真宗大谷派]の佐々木道範住職(40歳)である。入口に同朋幼稚園があり,園児たちが砂場で元気よく遊んでいる。わが子5人の子供を被爆から守るために,NPO法人「TEAM二本松」を立ち上げ,食べ物の線量測定,除染作業に取り組み始めた。高校までボーイスカウト活動をしていたのは,父道昇氏(75歳)が福島県コミッショナーであった影響もある。

同朋幼稚園

 参加者一同,本堂に入り,福島の追い詰められている実状を聞き,戦慄を覚える。赤ちゃんミルクの中に放射性セシウムを突き止め,全国を驚かせた。子供たちに甲状腺ガンについて,腹から振り絞るように言う。「子供たちのね,甲状腺の検査が始まって,今,福島県の一番新しいデータだと44人ですかね,甲状腺ガンになっています。百万人に1人か2人なんだそうですね,統計的には,小児甲状腺ガンというのは。震災前はですね。でも原発事故が起きて,何万人検査が終わったのかな,まだちょっと2次検査で終わってない子供たちもいますので正確なデータではないですけれども,現状で44名出ている。二本松市でもね,4名の子供たちが甲状腺ガンになっています。まあその,認めないですよね。国も,東電も。因果関係はない,っていう」。

佐々木道範住職

福島県二本松市の佐々木道範[真行寺住職]さん

 続いて,食べ物についても述べる。「うちの門徒さんのおばあちゃんがね,毎年,干し柿を作ってくれる。干し柿の文化なんです。干し柿はね,残念ながら出荷停止なんです。でもそのおばあちゃんは,テレビもよく見ないんかな,震災の年も干し柿作ったよ,って持ってきてくれてね。それはね,900ベクレル。おばあちゃんに,悪いけど測らしてもらったんだ,つって。でもこれ,お孫さんにはね,食べさせちゃだめだよ,って。言ったらおばあちゃん泣いちゃってね。お寺さんもそんなこと言うんかい,って。言いたくて言ってんじゃないんだけど,おばあちゃんも全然悪くないけど,放射能が,原発事故が悪いんだよ,って。放射能降っちゃったからね,食べられないものがあんだよ,って。」

 放射能の対応をめぐって家族間に対立があり,自殺,離婚が増えていることについて,「何ちゅうのかな,最近ちょっと怒りを通り越して悲しくなってきてますけれども…」と語る。

 豊原氏は報告で書いている。「除染の終わっていない公園でも子供は遊びたがる。母親は最初は口で注意していたが,やがて手を出してしまう。セシウムやなんやかんやと言われても子供には(大人にも)何も見えない。」と。

 福島県の聞き取り調査も終わって,参加者たちはそれぞれに思いに去来する荷を背負ったにちがいない。山田優さんは「『寄り添い話しを聞いたり』『無料でお経をあげたり』とお寺,神社でできる限りのことを避難している方々にしてきたお寺様神主様は,自分も被災者なのに私にはすごく力強く感じられました。」と言う。メディア報道はまさにストーリーが先にあって,虚構の復興をたれ流している。民衆はまったく無知のままであり,被災地の苦悩を忘れ去っている。東北にとってオリンピック開催など,蚊帳の外であろう。

 国の総理は海外では安全と強調するが,福島県民の前では安全と言えない二枚舌に翻弄される。国の指導者の言うことが分裂するからといって,福島の最小限のしあわせの単位である親子,夫婦の家族の意見に深い溝ができたり,コミュニティが乖離による崩壊をもたらしている現象は深刻である。

 第一回目の「阪神宗教者の会」東北追悼と復興の祈りは天候に恵まれ,いろいろな宗教の聖職者と接する機会になった。教えられたことは共苦,共生,苦縁が阪神・淡路大震災を体験した地域の宗教者にとり重要な視座であることを再認識させられたことである。「知らなかった事の罪」(ミリンダ王問経)を懺悔しつつ,小さな行為を積み上げていく決意を促す東北への旅になった。来年以降も年に一回,訪れることは,痛みつけられた慟哭の宗教者を見捨てていない証しになるだろう。寄り添い,伴走していく。2名の学者,2名のジャーナリストが各地で質問をし,有益な応答をいただけたことも一行にとり啓発された。とりわけイスラム教の代表者が加わり,たとえ寺社仏閣の仏壇の前でもメッカに向かい,敬虔な祈りを日に5度捧げる姿勢にも励まされた。霊性をもっている態度に敬意を表し,共通意識を構築できたことの意義は大きい。真の宗教者なら争うことなどできない良い実証であろう。「平和を実現する人々は,幸いである,その人たちは神の子と呼ばれる。」(聖書)に書かれているように,平和をただ愛するのではなく,実現することが尊い。神,仏に感謝しつつ。

 

第二回「東北追悼と復興の祈り」 2014年8月31日~9月3日 未完

「共苦」       被災地福島を訪問して

神戸国際キリスト教会 牧師 岩村義雄

 主題聖句: ローマ 8章22節 被造物がすべて今日まで,共にうめき,共に産みの苦しみを味わっていることを,わたしたちは知っています。

 <序>2014年9月2日,福島県双葉郡の浪江町,双葉町,大熊町,富岡町を訪問。東北ボランティアに3.11以降,43回目です。月にだいたい一度のペース。福島県浪江町からは検問が厳しく,予め入村許可をとり,身分証明書を提示してから,防護服を着て,入りました。福島県の気温は17度。秋の気配であり,キリギリスの鳴き声はもうありませんでした。約3年半にわたり,人が人っ子一人住まなくなると,どうなるか廃墟と化した街並みを見ます。お店の看板,標識,倒壊した家屋は地震で倒されたままです。海岸線は津波で襲われ,大きな船が生い茂った荒野にぽつんぽつんと散在しています。家の前に牛の大きな糞がころがっています。ネズミが,酪農の家の人が殺すのは忍びないと放置した豚が野生化して,人がいなくなった家に入り込み,めちゃくちゃにしています。被造物と言えば,双葉町,大熊町では人間はいません。したがって,地を這う動物のうめきが耳に入りました。

(1) 被造物のうめき
 a. 被造物とは
  クティスィス [ギリシア語クティスィス]は「創造(創設)されたもの,被造物,造られたもの,世界,制度」です。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ,増えよ,地に満ちて地を従わせよ。海の魚,空の鳥,地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」 (創世記 1:28)で述べられている「海の魚,空の鳥,地の上を這う生き物」が含まれます。家畜,動物,獣です。広辞苑によると,「家畜」とは,“人間に飼育される鳥獣。牛・馬・豚・鶏・犬の類”と定義されます。ちなみに創世記1章24節に「家畜」[ヘブライ語 ベヘマー]が始めて登場する箇所では,まだ最初の人間が創造されていません。
  b. 世話をする

  「主なる神は人を連れて来て,エデンの園に住まわせ,人がそこを耕し,守るようにされた。」 (創世記 2:15)。「耕し」(ヘブライ語 アーバド 「仕える」の意),つまり耕作することから人類は始まりました。「守る」(シャーマル「見守る,救う,世話する」の意)ことを委ねられたわけですから,里山を損なわずに,人が安らぐ環境を守る責任があります。

  c. スチュワードシップの放棄
 汚染,公害,自然破壊ではなく,被造物の生態 Ecologyを管理するのではなく,仕えるのです。エコロジーの語源,“Eco-”はギリシャ語oikos「家・家庭・家計」に由来する接頭語。Logyはギリシャ語logos「言葉・言語」に由来。学問,研究をあらわす語につく接尾語です。アベルとカインの献げ物の内,農作物が神に受け入れられず,アベルの羊が認められました。当時は肉を食べる習慣がなく,神が食べる分として捧げられたのです。牧畜が認められたわけですが,ノアの洪水審判の後,肉を食べることが許されるようになりました。血は命ですから,屠る際,血は地に流すように命じられました。「ただし,その血は食べてはならず,水のように地面に注ぎ出さねばならない。」 (申命記 12:16)。すべての生き物の命はその血であり,神の足台である大地に注ぐのです。「主はこう言われる。天はわたしの王座,地はわが足台。あなたたちはどこに わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。」 (イザヤ 66:1)。
 福島原発の近くの地域では,震災後,酪農を営んでいた人々は強制的に退去を命じられました。「地の上を這う生き物」を連れて逃げるわけにいかず,餌をたくさん残して逃げたのです。その結果,家畜である牛,豚などは野生化して無人の地域を徘徊するようになりました。 

 (2) うめき
  a.被造物のうめき
 
飼い主がいなくなった牛,豚,鶏は自分たちで餌を得なければなりません。空き巣や盗みがなされないようにと,無人となった各家の前にはフェンスが張りめぐらされる以前のことです。動物は家の玄関から畳や床の上に入り込みました。地震で破損した箇所からこじあけて侵入します。雨露をしのぐためだったり,食品が残っているのを嗅ぎつけ,食糧をあさるのが目的です。イノシシは人家に入りませんが,イノブタ[イノシシと豚の混血]は家の中にこじ開けて侵入します。イノブタはイノシシの5倍の繁殖力があり,一頭が年間20頭を出産しますから,捕らえるための箱わなをよく見かけました。ちなみにイノシシ,イノブタは放射濃度が高く,食用にはなりません。留守宅をちらかし,糞で家の中,周囲は臭くなっています。天井裏ではネズミが我が物顔に走り回ります。国が退去させた住民に午前9寺から午後4時まで一日立ち入りを認めた時,わが家の変わりように人々はへなへなと座り込んでしまいました。

  b. 収穫物のうめき

  年間50ミリシーベルト以上ある双葉町,第1原発のある大熊町は帰宅できない地域です。年に15回しか立ち入りができません。通行証が必要です。2017年まで,国は除草,除染はしてはいけないとお達ししています。強制的に住めなくされた結果,北に隣接する南相馬市の仮設住宅に一部の人たちは移住を余儀なくされました。私たちも浪江町の藤橋スクリーニング場で防護服を脱ぎ,放射能付着の検査をしてから南相馬市の中心地原町に向かいました。福島県の米どころとして県民が生き残るために福島県産の米が安全であることを全国に知らしめなければなりません。福島原発から20キロ離れた南相馬市で,除染作業をして本格的に米栽培を実験的に始めました。しかし,今年7月15日には,実証栽培米には1キロ当たり100ベクレルを超えています。(福島民友 2014年7月15日付)。つまり食べると被曝する放射性セシウムがあるということです。お百姓さんはあきらめきれず,うめいています。基準値を超えるとコメは売れないからです。

 c.母親のうめき
 
「神はその嘆きを聞き,アブラハム,イサク,ヤコブとの契約を思い起こされた。」 (出エジプト 2:24)と書かれているように,エジプトの苦役を強いられているイスラエルの民の「うめき」を聞くようにモーセに神は求めました。つまり,うめきに耳を傾ける感受性を喚起されたのです。
 双葉郡の多くの方の仮設住宅がある南相馬市でも持っていった線量計の数値は高くなったり一定ではありません。絶えず数字が変わるのは空気中に浮遊している放射線があるからです。27年経たチェルノブイリ近辺では数値は変わりません。一方,日本では風が吹いたり,雨の降り始めには線量はあがります。富岡町では数字は振り切って計ることができない高線量でした。100万人にひとりと言われる小児性甲状線ガンにかかる子どもたちの数は12人(2011年6月)→43人(2013年4月)→104人(2014年8月)と増えています。しかし,放射能との因果関係が認められないために,障害賠償を受けることはできません。30キロ圏内でなくても,50キロ離れた地域でもセシウムが6倍です。(朝日新聞 2014年7月16日付)子どもは大人よりも3倍の放射能の影響を受けると言われています。しかし,いわき市行政は子どもたちの給食に,風評被害払しょくのためと言い含めるように,福島産のものを使うことを強要しようとしています。子どもの未来を思う母親たちは,子どもの被ばくをとても心配しています。現地のうめきの生の声を聞くことができました。

(3) 共生,共苦,苦縁
 a.悔い改め
 福島の母親たち,子どもたちは震災直後からむずかしいたくさんの決断を迫られてきました。原発は平和利用ということでアメリカのキリスト教界から日本にもたらされました。ウイリアム・ポラード[1911–1989]氏は,米国聖公会の司祭です。1944年にマンハッタン計画に参画,ウランからU-235を抽出し,広島,長崎に用いました。1946年,ポラード司祭はオークリッジ原子力研究所所長に就任しました。ポラード師は原子爆弾の反省から原子炉の平和利用を祈りました。やがて日本のキリスト教主義学校に原発の平和利用の研究所が作られました。しかし,3.11に平穏な生活,生きがい,家族関係を裂く1~3号機のメルトダウン(炉心溶融)が起こり,原子炉内は手のつけようがありません。人類の未来さえも破壊してしまうのが原発事故です。
  まず,キリスト教界が原子力問題について悔い改める必要がございます。

b. 感情移入
  私たちはこれからも54基が海岸線にある日本で生きていくつもりならば,研ぎ澄まされた感性を問われています。福島県民は経済的ゆとりもなく,とどまり,そこで生活をしていかざるを得ませんでした。仮設住宅などにとどまった人たちは自死,離婚,家庭の分断にさらされています。一方,退去などで他府県に移動した福島県の方々は行った先々で孤立,疎外,失業でやはり,自死,離婚,家族の分裂が起きています。共に苦しむとは,自分自身の問題として,私たちが痛み,苦しみ,抑圧に共感と共苦をすることが求められます。「また,群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て,打ちひしがれているのを見て,深く憐れまれた。」 (マタイ 9:36)の「深く憐れまれた」(ギリシア語エスプランクニスセー)は日本語に適切な言葉がなく,琉球のチムグルシー(胆苦しい)が一番ふさわしいでしょう。「あなたがたは神に選ばれ,聖なる者とされ,愛されているのですから,憐れみの心 [スプランクナ],慈愛 [オイクテルムー],謙遜,柔和,寛容を身に着けなさい。」 の精神態度が求められます。(コロサイ 3:12)。「あなたの民があなたに対して犯した罪,あなたに対する反逆の罪のすべてを赦し,彼らを捕らえた者たちの前で,彼らに憐れみ [ラハミム]を施し,その人々が彼らを憐れむようにしてください。」 (Ⅰ列王 8:50)と旧約で書かれている憐れみ[ヘブライ語ラハミム「憐れみ,同情,子宮,胎」]も新約と同じです。

 c. 共苦
 主題聖句の文脈の17節には,「もし子供であれば,相続人でもあります。神の相続人,しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら,共にその栄光をも受けるからです。」 (ローマ 8:17)と書かれています。うめきに「共苦」するキリスト者ならば,「共に苦しむ」 (スムパスコー スン「共に」+パスコー「苦しみを受ける,苦難を経験する」参照 マタイ 17:12, 使徒 1:3。)ために,苦縁により,同じ兵庫県の丹波水害に出かけて行きます。スプランクニッツォマイは英語で,have a compassion with~です。日本語にはない言葉であり,琉球の言葉チムグルシー(胆苦しい)が一番適切な意味を持っている語です。日本人,否,人類全体がチムグルシーの感性をもって,福島の被爆について共苦していきましょう。