支縁のまちネットワーク 第2回交流集会

 3月2日(土曜日)の午後1時半~5時,天理教大阪教務支庁(大阪市天王寺区小宮町9-18 最寄駅はJR環状線桃谷駅です)にて,第2回目の「支縁のまちネットワーク」交流集会を開催します。
 「支縁」という大きな枠で考えています。パネル形式で各30分程度,それぞれの活動 神道(土生神社の阪井宮司),仏教(真宗大谷派の犬伏住職),天理教(教会長夫人上田氏),およびキリスト教の4名が話します。コーディネータは天理大学社会福祉専攻准教授の渡辺一城先生です。さらに,フロアを交えて質疑応答と討論という進み方です。

0302_交流集会チラシ

支縁のまちネットワークちらし

「支縁のまちネットワーク 第2回交流集会」        
                                  中外日報より

中外日報20130314

                                            新宗教新聞より

日 時 : 2013年3月2日(土)午後1時半~午後5時
場 所 : 天理教大阪教務支庁
講 師 : 神戸国際キリスト教会 牧師 岩村義雄 一部改正 13/03/03
主題 : 「わたしは虫けら,とても人とはいえない。人間の屑,民の恥。」(詩編 22:7)。

<序> 子どもの頃から勉強もしないで蝶や虫を追っかける昆虫少年でした。ガキ大将であったこともあり,皆を連れて,田んぼの畦でいっせいに石をもって,かえるにあてるのです。私が「絶滅だ!」と言うと,子どもたちは必死にカエルを殺しました。その時はリーダーですから,理屈をつけてそそのかすのです。「かえるはお百姓さんにとって作物をだいなしにするんだぞ」と。おびただしいかえるの死体が溝にいっぱいになります。命の大切さ,死がわからないとは言え,残虐なことをしました。平気で命を奪う「虫けら」のような自分がいます。高校生ぐらいになりますと青少年活動で平和を追求するボランティアをします。結婚して家内が申します。あなたは二重人格よ。顔も右半分と左半分が相当違っているでしょうとずばり言いあてます。人を活かす活人剣を磨くより,人を殺す殺人剣を振り回す人間の屑のような生き方をしてきました。

(1) 民の恥である宗教遍歴
 a. 異端街道を突っ走る
  東京で生まれ,すぐに家の宗教であるローマ・カトリック教会の洗礼を受けました。1)三代目のクリスチャ 
ンです。神戸で26歳の時,戸別訪問する宗教グループのものみの塔2)の人についてかわいそうに思い,
会社のない休みの日に説得しようと,ミイラ取りがミイラになります。それからというものあらゆる宗教,僧
職者,お寺や神社などの建物はサタンという考えに凝り固まります。明舞団地の地域で最高責任者にな
ります。もっとも努力したのはキリスト教会を廃寺にすることでした。信者や他の宗教を信心している方に近づき,ごぼう抜きに回心させたりして,その地域では鼻つまみ者になりました。いわば「人間の屑,民の恥」でした。40才近くまで人々を「あれはしてはいけない」「血を食べてはいけない,つまり輸血禁止だ」とか,たくさんの人々を口先で教えて,生き方を縛ってきたことです。「文字は殺しますが,霊は生かします。」 3) 「真理はあなたたちを自由にする」 と能書きを知っていても,実際には人を教えで奴隷にすることに命を賭けていたのです。4)
  そんな私が激しい伝道活動で入院する羽目になった妻の介抱しているうちに,時間のゆとりからでしょうか。世界で一番大きい異端と言われるエホバの証人の間違いに気づかされます。属している会衆の多くの人たちと組織を後にしました。

b. 回心後,牧師になり教会を起こす
  放蕩息子が帰ってきたとばかり,歓迎してくれる教会や人々もおられれば,一方,いまだに過去の負い目について不信の目で見られることもあります。なぜなら「とても人とはいえない」所業の数々を行ってきたからです。罪人の頭だからです。家内は「牧師だけにはならないで」と言っていましたが,1995年,阪神淡路大震災の時,ゼロからプロテスタント教会を起こすために駅前で福音を語りはじめました。5) 東京で生まれた時,教会は日本で最も大きい四ッ谷の教会,やがて何万人も集まるエホバの証人,そこを出て交わったキリスト教会も日曜日には千人ほど集まる教会でしたからすぐに教会はいっぱいになるだろうと思い込んでいました。ところが,だれもキリスト教のメッセージを聞いてくれません。震災で被災した人は私のしゃべくりより,水,毛布が必要だったのです。信者数を増やすことよりもっと大切なことに気づかされました。何が息も絶え絶えの人に必要か,頭をガツーンと打たれたような体験です。私たちの教会はブレザレン派であり,牧師は無給が特徴です。生涯,手ずから仕事をしながら,教会に仕えていきます。労働をしながら,福音は言葉ではなく,生き様を通して示すことになります。
  「最早われ生くるにあらず,キリスト我が内に在りて生くるなり。」 (ガラテヤ 2:20 『文語訳』)。

 c. 隣人を愛しなさい
   2001年9・11テロ以降,キリスト教会に戻ってきてもサタンだと思い込んでいたイスラム教圏にアメリカが無差別攻撃を行ないました。痛みつけられた中東の人々に対して,りくつではなく,「ごめんなさい。」と素直に謝る祈りが出てきました。かえるを少年時代にたくさん殺したことがよみがえってきたのです。唯一神教の陥りやすいまちがいです。「聞け,イスラエルよ。我らの神,主は唯一の主である。あなたは心を尽くし,魂を尽くし,力を尽くして,あなたの神,主を愛しなさい。」  6) に書かれていますように,ユダヤ教,キリスト教,イスラム教は「唯一の…主を愛しなさい」を大切にします。神を愛することが大事な教えとなります。
では,イエス・キリストも唯一神教の特色を教えられたのでしょうか。

 イエスは言われた。「『心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くして,あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も,これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 (マタイ 22:37-39)。7)

 西暦一世紀のイエスは,二つの律法を守るように強調されたんだから,隣人を愛することと,神を愛することとバランスをしっかり保たねばと強調します。キリスト教会ではよくたとえで十字架を指さして私たちの信仰は仲間の信者との愛の横の関係より,神と信仰者の縦の長さの方が重要であると教えたりします。しかし,聖書はどう言っているでしょうか。

 「あなたがたも聞いているとおり,『隣人を愛し,敵を憎め』と命じられている。しかし,わたしは言っておく。敵を愛し,自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ 5:43,44)。

 さて,隣人を愛しなさいと決して強調されていません。むしろ「敵を愛しなさい」と言われています。つまり,隣人愛の対象を仲間だけに限る態度を根底からひっくり返してしまいます。ものみの塔やほとんどのキリスト教会のように仲良しクラブになるようにとはすすめていません。なぜイエスは,「敵を愛しなさい」と言ったのでしょうか。当時もユダヤ人たちは,モーセの律法,レビ記 19章に従い,コミュニティのメンバーだけを大切にしていたのです。ユダヤ人の排他性を明らかになさったのです。すべての人々に対しても,偏り見ることをしてはならいないのです。

 もしあなたがたが,聖書に従って,「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら,それは結構なことです。8)

 最初のエルサレムの教会を導いたペテロに続いて,イエスの異父兄弟であるヤコブは,「隣人を愛する」律法について,「最も尊い」 [Gk 王の]と言っています。では,ヤコブにとって,「隣人」とはだれを意味していましたか。文脈の2節を見ますと,礼拝にやって来る「貧しい人」に差別や偏見を抱いてはならないと述べています。立派な会堂になりますと,何日もお風呂に入っていない「路上で生活をしている人」にとってきれいな教会は敷居が高いことは言うまでもありません。

 イエスの教えの忠実な弟子の一人パウロが言います。

 兄弟たち,あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ,この自由を,肉に罪を犯させる機会とせずに,愛によって互いに仕えなさい。律法全体は,「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが,互いにかみ合い,共食いしているのなら,互いに滅ぼされないように注意しなさい。 9)

 パウロは,“人を愛する者は,律法を全うしているのです。”と語ります。「全うしているのです」 (Gk プレーロー)です。ローマ 13章8節でも,同じように,“「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されています”と言い切っています。「『心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くして,あなたの神である主を愛しなさい。』 については一切触れていません。つまり,パウロは繰り返し,「隣人を愛しなさい」と強調しています。イエスが語った「『心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くして,あなたの神である主を愛しなさい。』  はどうなってしまったのでしょうか。
 パウロはイエスの言葉を忘れてしまったのでしょうか。ないがしろにしてしまったのでしょうか。
 パウロに言わせれば,神を愛しているから熱心に教会に通っているからというだけでは,福音に生きているとは言えません。パウロは,隣人の対象を仲間ではなく敵にまで広げています。イエスと同じです。

  あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって,呪ってはなりません。10)

 イエスにしても,新しい宗教を広めたのではありません。ゲラサの悪霊にとりつかれた人がいました。ユダヤ教の信者でもなかったようです。いやされたので,イエスに付いていきたいと願います。ところが,キリストは「自分の家に帰りなさい。そして,神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」 と語っただけです。11) したがって,イエスは新しい宗教を広める努力をしたのではありません。百人隊長,カナン,サマリアの女性に対しても改宗を迫ったことは聖書の記録にはありません。「折が良くても悪くても励みなさい」 (Ⅱテモテ 4:3)と言うのは教会の信者を増やす努力ではありません。福音に立つことです。つまり「隣人を自分のように愛しなさい」 に基づき,それも仲間以外の敵でさえ愛する福音です。

  (2) 東日本大震災の闇
  a. 地面を這う
  「隣人を愛しなさい」とはどういうことかを行動に現す機会がございました。3.11が起こった時,若者たちが集まってきて,すぐに支援物資をもって宮城県に向かいました。虫けらのように地面を這いつくばりながら,ドロ出し,がれき処理,避難所訪問,農林漁ボランティア,在宅被災者戸別訪問に毎月仕えるようになります。参加者の中には,20回以上定期的に参加している20代前半の若者たちもいます。本日の集会のように,助ける「支援」ではなく,支え合い縁を作る「支縁」をさせていただいています。地縁,血縁をずたずたにした無縁社会をどうやって,かつてのような「田・山・湾」に囲まれたムラ社会を復活させるか,かたつむりのように進みます。当然のことながら,手段も地面を這いつくばっています。虫けら同様の働きです。虫ずが走ると言ったりします。虫を嫌いな人は相手が何も言わないから気味悪いのです。そんな人にゴキブリはかわいいでしょう。愛しましょうと言っても無駄です。愛せない人に無理やり愛想を振りまいても,押しつけがましいだです。愛する方は気持が高まって,私は信仰者だから,どんなに努力しても,相手は不快極まりないのです。なぜ愛の押し売りをするかおわかりでしょうか。「神は愛だ」と思い込んでいるからです。東北の岩   手県大船渡にケセン語研究しているお医者さんがおられます。
 山浦玄嗣さんと言います。山浦さんは独学で聖書のギリシア語などを研究し,「ケセン語訳聖書」を発刊しました。その訳には「愛」という言葉はありません。「お大事に」です。嫌いな人にでも家族のように愛することができなくても「お大事に」することはできます。私たちは石巻市の方々と接する際,「愛する」ことの前に,「お大事に」という精神で縁を結んでいます。

 b. 農林漁ボランティア
   自然が本来豊かな三陸海岸ならば,虫は生き残っていたはずです。湿地が手つかずのまま,人が手を入れていなければ昆虫の生息地は守られました。虫の住みかである低湿地が津波をかぶってしまったのは高さも関係していますが,自然環境がなくなり,更地から水田へと変わっていたからです。海辺から40キロ離れた奥地にまで水が覆ったのです。海岸や河口の湿地に生息するヒヌマイトトンボなどは二年間行っていますが,見かけません。消滅してしまったかもしれません。
 2011年8月に,石巻市稲井土地改良区の主だった農家の方との会合を持ち,やがて,塩害のため作付けができなくなった田んぼを委ねられることになりました。水田には5800種を越える昆虫,魚,ミジンコや微生物などが生息しているはずです。しかし,機械化や農薬によって,日本列島の生態系が崩れてしまっています。面積当たりの収穫の利益追求に陥っています。日本の減反は43パーセントに及びます。高度成長期に自然生態の喪失は,佐渡のトキ,豊岡市のコウノトリなどの絶滅につながりました。2011年9月,はじめて宮城県の根岸の田んぼには足を踏み入れた時は,イヌビエという雑草がはびこっていました。農家の8割が廃業したのです。塩害と言われていても,アメリカザリガニ,チビカゲロウ,ユスリカ,マルタニシやドジョウなどがいました。感激したのはニホンアカガエルがいたことです。手にのせて両手で蓋をするようにして暗くし,頭をやさしくなぜると静かにしています。
 作付けがなされずがれきがありますが,無農薬,無肥料の田んぼだからこそ,生き物が戻ってきていたのです。もし苗床用にネオニコチノイド系農薬が出回っていたら,たくさんの種類の水中生物にはお目にかかれなかったでしょう。現在,日本各地でミツバチが減っています。燕は虫をとる鳥ですから少なくなっています。欧州では禁止されている農薬ですが,日本では農協さんが米,野菜などの種を配る際,用いています。人体には害はないですが,虫は死んでしまいます。
 コウノトリのデザインで「田んぼアート」をし,機械を使わず田植え,稲刈り,天日干し,脱穀をして収穫した古代米をムラ社会回復のためにお祭りで用いていただきました。地元の方たちは「田・山・湾の復活」というスローガンで昨年11月,祭りをし,今年1月には餅つき大会をしました。

 c. 在宅被災者戸別訪問
   行政やボランティアが一度も訪れたことがない宮城県石巻市旧渡波で戸別訪問をしています。先々週,伊勢町でひとりのご主人にはじめてお会いしました。その方は昭和27年生まれ,60歳になられます。津波が襲ってきた体験を横を向きながら語ってくださいました。みごもった娘が孫を出産しようとする日を控えている時,黒い波の牙に娘と孫がさらわれます。どうすることもできません。自分の奥さんが家の真向か
いの二階の屋根のといにぶらさがって声をはりあげ,必死にもがいていました。なんとか妻を助けることができました。しかし,娘と孫を失った奥さんはご主人の許から消えてしまわれ,二年間わからないままだと,ふりしぼるように語られました。お独りになってしまわれたのです。では,みなさん,どんな慰めの言葉や,ご自分の宗教信条や経典の中から語られるでしょうか。

(3) 死人たちには希望がある
 a. 障がいをお持ちの方は見捨てられる
  東北では復興にかかわるNPO法人が破算という現実もあります。無医村に医療でボランティアしたくても,高速料金が負担になります。他府県から行きたくてもなかなか行けない非情な政策,大型プロジェクト優先について地元の怒りを耳にします。
  「自己責任」を民に迫る政府首脳の姿勢が日本列島の空気として包んでいます。被災地は呻いています。自立できない過疎,高齢化,少子化の地域は容赦ない抑圧,搾取,見捨てられてた怨念が忍耐強い東北人にあるでしょう。障がいをお持ちの方の被災について,石巻市健康部水野正昭部長や,高橋正則課長たちは障害者手帳により,実数を把握していると応えます。しかし,戸別訪問して現場で出合う人の多くは高齢者であり,生きていくのがやっとの人たちです。介護認定,要支援の認定を受けていなくても,日常生活ができない耳の不自由な人,知的障害の人,歩行困難な人はたくさんいます。避難警告時に健常者のように行動ができません。そんな弱者を見殺しにするセーフティネットがない日本の縮図が被災地にあります。余震におびえます。もちろん石巻市の職員は休日を返上して,昼夜分かたず公僕として働いていることは20数回に及び訪問でよくわかっています。とにもかくにも予算と人材が不足しています。旧渡波に限って言えば,障がい者の震災時,震災後の実状については,阪神・淡路大震災の時と同じで教訓が生かされていません。 実数など把握できっこないのです。なぜならまだ行方不明者扱いの方たちもずいぶんいるからです。死亡者の数も確定できていません。調査も人材不足のため民生委員任せにならざるをえないのです。その民生委員も大半が津波で流されて,空白の地域もあります。障害者手帳を持っている人もどうなったかわかっていないのです。
 東北の被災地は国から見捨てられていると言ってもさし支えありません。首長が上京して財政的支援を懇願しても,新年度一般会計は2,260億円の規模です。人口減のため税収が減り,地場産業も復興せず震災失業にあふれている中で,弱者の生活基盤にまで予算はまわりません。国は大型プロジェクトのバラまきではなく,手を差し伸べるべきです。地元の人たちが自立していこうにも医療,財政,ボランティアの数があまりにも貧弱です。阪神淡路大震災の教訓が生かされず,地域任せになっています。無責任な国の政策で三周忌を迎えようとします。12月7日の余震の避難勧告も多くの方は聞き取れなかったそうです。ある知的障害者の方も「逃げろ」という周囲の警告がわかりません。私たちが2012年6月から,調査した段階で,障がいをもっていた人で奇跡的に生き延びた方のお証しを聞くことはまだございません。
 神戸からの若者たちは,ヒアリングを体験し,生き延びた方の地獄絵図を聞きますと,勇気を奮い起こし,参加費を払って,再び,石巻にやってきます。現在,地盤沈下や,防波堤建設予定による地形変化の地図作りに取り組んでいます。願わくは模型をつくって,被災した方々の無念と,同じ悲劇を反復しないようなまちづくりに取り組んでいます。障がいをもっている者の生活を支える人が突然死し,取り残されだれにも助けを呼べずに衰弱死してしまわない縁のあるコミュニティをつくりたいものです。

 b. 2万人近くの犠牲者を前に宗教者は何を語りうるのか
  東北の人たちと話していて,思わす出てきそうになる言葉を呑み込むことがあります。「あなたが助かったのは神仏のおかげですね」と言う言葉です。なぜ語れないかは,津波や地震の犠牲者は神様の恵み,憐れみの対象にならなかったのかという逆説に答えようがないからです。つまり天罰論では亡くなった方は
存命中に不敬虔,邪心,罪人であったからお天道様の怒りに触れたことになってしまいます。同時に,神に代わって,虫けらの私が遺体にむち打つことにつながりかねません。したがって,夫や妻,親や子,孫を失った方の前で,キリスト教の「罪」を語り,犠牲者は罪を認めず,赦されなかったと誰が言えるでしょうか。「患難汝を玉にす」のように次の聖書の言葉も死者にはあてはまりません。

 あなたがたを襲った試練で,人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず,試練と共に,それに耐えられるよう,逃れる道をも備えていてくださいます。 (Ⅰコリント 10:13)。

  「耐えられないような試練に遭わせることはなさらず」という確信があっても浜辺沿いの人々は逃げ遅れたことでしょう。波の藻屑となったのです。

 c. 宗教者自身の心のケア
  関西とちがい,東北は風土がちがいます。御堂や仏像などご本尊が流されたところも少なくありません。檀家,信者の家も跡形もなくなりました。家族もいなくなりました。家だけでなく,老後のためにとっておいた財も流されました。着の身着のまま逃げたのです。教団から寺,建物の再建のために寄附もあるでしょう。しかし,村の中心であったお寺は再建できていないのです。なぜならお墓も流されてしまって,手を合わせにやってくる信者がいなくなったからです。心の病について被災者の中でももっとも大きいのは被災地の宗教者であることに気づかされます。支縁のまちネットワークにご出席の皆様にお願いします。東北三県の被災を受けた僧侶,神主,教会長たちのために引き続きお祈りください。

<結論> 命をつなぐことが未来をつなぎます。宗教者にしかできないこともあります。弔いです。人間にしかできない尊い営みです。たくさんのかえるの死骸について忘れることはできません。かえるは死んだのですが,私の心の中では生きています。不在にすぎません。葬りは,人間が生から死へ移行するもっとも注意を払うべき儀式です。津波で流された方たちは荼毘に付すことができないため,とりあえず,内埋葬,土葬します。火葬場も流され,二年経ても,いまだに順番待ちです。孤独死,孤立死,無縁社会,葬式無用論と言われる時代に死者の存在を無視することの非倫理に決別しましょう。参列する人の主体をゆさぶる儀式によって死者も真に死ぬ希望を持たなければなりません。「隣人をお大事にする」範囲は来世の人々にも広がります。霊的な目が開かれた者たちの責任です。政教分離という題目で合同慰霊祭を否定する無慈悲な行政に対してある時には抗わねばなりません。ご一緒に手をたずさえて,目に見えない爆弾―放射能,被災で病んでいる人,2万人の死者と共に生きましょう。                               合掌

引用聖書は日本聖書協会発行『新共同訳』

1) 聖イグナチオ教会 東京都千代田区麹町六丁目 信者数 14,382人(2009年)。
2) 世界最大のキリスト教異端 7,659,019人。『2012年エホバの証人の年鑑』:
拙論「福音主義神学」 №31(日本福音主義神学会  2000年 111-141頁)。
3) Ⅱコリント 3:6。
4) ヨハネ 8:32。
5) 拙論『神のみ名は‘エホバ’か』(いのちのことば社 193頁 1995年)。
6) 申命記 6:4,5。
7) マルコ 12:33; ルカ 10:27。
8) ヤコブ 2:8。
9) ガラテヤ 5:13-15。
10) ローマ 12:14。
11) ルカ 8:39。