良心者 コンチ Pastor Yoshio Iwamura

「良心者」(良心的兵役拒否者 Conscientious Objector ) 

武具を棄てよう

 戦争,紛争,確執において,「良心者」(英語 conchie コンチ 良心 的兵役拒否者 Conscientious Objector カンシエンシャス・オブジェ クター )として行動します。

 NOという勇気

    「まっぴらごめん」 と抗う勇気

  武器を取らなかった兵士 第二次世界大戦中

        勇者だけが剣を捨てる

非暴力は臆病を隠すベールではない。 それは,勇者の最高の美徳である。 非暴力を行使するには,剣をふるう以上の勇気が 必要なのだ。 だから,武術家が非暴力の担い手となるのは,理 にかなったこと。 非暴力とは, 暴力に対して十分に反撃できる力をもつことでも あるのだから。

ガンディー 魂の言葉』(浅井幹雄監修 太田出版 2011年 36頁)。

「垂水革新懇」(2015年10月号)
「垂水革新懇」(2015年10月号)

 

   毎日新聞 (2015年4月8日付)。“九条世界普及へ良心者は叫び続ける”

20150315推す会会見  「クリスチャン新聞」(2015年3月15日付) “「良心者」(コンチ)が叫ぶ” Pastor Yoshio Iwamura

『毎日新聞』( 2015年4月8日付)。
『神奈川実行委員会ニュース』(2014年8月19日)

「キリスト教と非戦」―武具を捨てよう  OCCカレッジ講義
OCC College Lecture     April 18, 2015  Pastor Yoshio Iwamura

                    2015年4月18日(土)午後2時
                    講 師 : 岩村義雄
                    エラスムス平和研究所所長

完全原稿 ⇒ キリスト教と非戦

英文完全原稿 Complete manuscript of  English ⇒ Christianity and Pacifism

<序>
 私は三代目のローマ・カトリック教会の家庭で生まれました。祖母野辺地ミキ[旧姓米津]は宮内庁御用達で有名になった風月堂を支えるため,七人の子どもを育てながら,男勝りに働きます。わが祖父野辺地四郎は外交官で家庭を顧みません。曾祖父 野辺地尚義[たかよし 1825-1909]は蘭学者であり,伊藤博文[1841-1909]などに英語を教えています。正妻以外に側室10数人もいたと聞かされました。明治維新における富国強兵政策の推進役の側にいたこともまちがいありません。

弟忠雄を抱く祖母 野辺地ミキ  [1888[明治21]年1月1日-1973年12月10日]

 祖母ミキは東京風月堂二代目の弟米津修二を助け,傾きかけた洋菓子屋の立て直しに苦労します。そんな試練が信仰に救いを求めるようになったのでしょう。東京四谷の麹町教会[現聖イグナチオ教会]の信者になり,「ヤソ,ミソ,クソ,スパイ」,と揶揄されても,キリスト教信仰によって子どもたちを育てます。娘のひとり義乃子は修道院の副院長まで務めます。影響を受けた四女である私の母も子どもたちに幼児洗礼を受けるようにします。

父 岩村祐治 1919[大正8]年1月31日-1988年9月24日 場所,年月日不明。

 父裕治は学徒動員で関東軍として占領していた満州で戦車操縦していた陸軍兵士でした。よほど戦争体験が過酷だったのか,生涯,口をつぐんでいます。つまり私は日本軍人の子であり,自分の意志ではなく,サクラメント(秘蹟 「宣誓」sacramentum の意)1)である受洗を聖イグナチオ教会でヘルマン・ホイヴェルス [1890-1977]神父から施されます。

ヘルマン・ホイヴェルス [1890-1977]。

 洗礼名はマルティヌスです。日本では珍しい洗礼名であり,他にお目にかかったことがありません。日曜学校などで,友達がヨハネ,パウロ,ティモテオ,マリアなど未信者にも知られているミドルネームなのに,自分だけが異なるので,洗礼名について卑屈な思いをしました。幼稚園に行く頃には,親には,将来,「僕は大人になったら神父様になるんだ」,と言っていたほどですから,余計,マルティヌスには抵抗がありました。どんな人か聖書にも出ていません。だれも聴いたことがない人です。ある時,会堂の古い絵画に,聖マルティヌス[316頃-397]が掲げてありました。馬にまたがる軍人でした。子ども心に思いました。「なあーんだ。戦場で戦う人だったのか」,と落ち込みます。どんな軍人か日曜学校の教師,修道女たちも説明ができませんでした。平和,愛,信仰を説く殉教者ではなく,兵士なのかと,気持が暗くなりました。洗礼名を人から聞かれるのがいやでした。いい子症候群の弱虫だったのです。堅信礼を白柳誠一枢機卿から受ける時には,マルティヌスの頭文字Mとだけ表記するようにしました。マルティヌスと語れない臆病者でした。Mならミカエル,マテオ,マルコと人は好きなように想像するのではと浅智恵でした。軍人ではなく,平和のために役立つ大人になりたいと思い上がっていたからです。
 思春期の16歳の時,青少年講座で総理府から遣わされた講師の話を聴く機会がありました。話し手は末次一郎氏[1922-2001]でした。

末次一郎[1922-2001年]。
日米京都会議1969年1月29日。

 武士道について青少年活動の若年リーダーたちに熱意をもって語りました。話し方,人となり,葉隠れについて心の中に刻み込むような出会いは愛国思想の出発点となりました。「神と国にまことを尽くします」と青少年活動でいつも誓っていましたが,末次氏は,国のためにいのちをかける大切さを教えました。出会いを通じて,いつしか「キリストの兵士」(Ⅱテモテ 2:3)として国を愛する義戦論者になっていました。1969年,「日米京都会議」の事務局などでは末次氏の黒子に徹します。宗教遍歴,26歳の時,国家に忠誠を誓う義戦論から,非戦のために殉教もいとわなくなるように転向しました。戸別訪問の非戦グループの宗教者との対話が動機です。教会のサクラメントから脱走し,エホバの証人になりました。13年を経て,聖書への回帰,信仰の挫折,手を翻すような背信により,集団離脱しました。没落的転向した明石順三[1889-1965] (灯台社代表 戦前ものみの塔聖書冊子協会[エホバの証人]日本支部)の裁判所での証言の真実さに共鳴したことも一因です2)

明石順三 1927年 東京進出(左から2人目)。
1927年灯台社黎明期 後列右端 明石順三。

 「君子は豹変す」という心境の変化に引きずられたのではありません。聖書の言葉が転向の発露となりました。虫けらのような変節の人生ですけれど,キリストの言葉「武具を棄てよう」に殉ずる覚悟だけは20代半ばから今日までぶれることなく維持しています。昨今,特定秘密保護法案,国家安全保障会議設置関連法,改憲手続き法の改定が政府主導で進んでいますので,皆さんとご一緒に「平和と戦争」について考えてみたいと思います。

目次

(1) 歴史的兵役拒否
 a. 兵役拒否とは
   「良心者」英語 conchie(コンチ)
  日本の徴兵拒否のイメージ4
 b. 初代教会の時代 
   ケルソスの非難 
   コンスタンティヌス5
   アウグスティヌスの義戦論
   十字軍        
 c. 神の戦士 ユスト高山右近6
   イエズス会の非寛容
   秀吉の伴天連追放令 1587年7
   江戸幕府のキリシタン弾圧
(2) 戦争拒否の思想
 a. 中世の衝突に抗って
   ワルドー派 
   エラスムス  
   ルターとミュンツァー8
   メノー・シーモンス
   カント    
   クラウゼヴィッツの戦争論9
   シュミット  
 b. 第一次世界大戦の頃
   吉田松陰の大日本主義
   治安警察法10
   徴兵拒否   
   天皇制強化11
 c. 第二次世界大戦の頃
   灯台社    
   拷問12
   良心的徴兵拒否 
(3) 絶対平和主義14
 a. 危機にある自分の国を見捨てることになるのか 
   墨子の「非攻」
   安藤昌益の『自然真栄道』
 b. 自分が愛する人が犯されても信念を貫く15
   価値があるのか
   ボンヘッファーの暗殺未遂16
   非暴力・非服従 
 c. 良心に従う17
   北アイルランド紛争18
   軍隊のない国    
   平和     
   第二の罪19

(1) 歴史的兵役拒否
 a. 兵役拒否とは
 主題の「武具を捨てよう arma projicere」をまず考慮します。「武具」はラテン語でarma[アルマ]と言い,英語 arm[アーム(戦争用武器の類)]の語源です。「捨てる」は projicere [プロイェケレ]と言います。projicere から英語 project [プロジェクト 投げ出す,放り出す]に派生しています。つまり自分から武具を投げ出すこと,戦闘につかないことを意味します。

 西暦314年にコンスタンティヌス帝[コンスタンティーヌ1世 280頃-337年]が開催したアルル会議でも「アルマ プロイェケレ」について議論されています)。戦時において,「アルマ プロイェケレ」した者を良心的兵役拒否(Conscientious Objection)と明確に言うようになったのは第一次世界大戦[1914-1918]からです4)
 兵役拒否者(以降,本稿においては「良心者」英語 conchieコンチ)は,一般的に,宗教上の信念に基づいて,軍隊に入らなかったり,戦争行為に加担せず,他の奉仕などに専念するキリスト者によって知られています。日本では,良心者について暗いイメージが伴います。「兵役義務者が,詐病などさまざまな手段を使って兵役を免れること。徴兵忌避」(広辞苑),大辞林では兵役拒否を検索すると「徴兵忌避」になっており,「徴兵制度下で,徴兵適齢者が,兵役を免れるために,身体を傷つけたり,疾病を装ったり,逃亡して隠れたりすること。兵役忌避」と定義しています。
 軍事主義と民主主義は異なると判断し,政治,あるいは思想による良心者も第一次世界大戦にいました。いわゆる反戦 anti-war [エンタイ・ゥオー] の立場です。しかし,社会主義実現のための戦争ならば,従軍する方を選びました。兵役を全面的に拒否したのではありません。いかなる場合でも兵役に従事しない姿勢を非戦 renunciation of war [レナンスィエーション・オヴ・ゥオー]と言います。英国の独立労働党 Independent Labour Partyの支持者でも二分されました。いかなる戦争も非道徳と考えた党員もいましたけれど,独立労働党員=絶対的平和主義者とは限りませんでした。5)
 良心者は,人間として欠陥があるような陰湿なイメージがあります。良心者は国を愛さない者として日陰の存在になります。軍需国家であるアメリカは,ベトナム戦争による激しい反戦運動を経て,徴兵制から志願制に移行せざるを得ませんでした。近年になって,ようやく良心者の絶対的平和主義が認知を受けるようになりました。良心に基づいて,兵役に就くかどうか自由に判断できるようになってきました。日本では,良心的兵役拒否について是か非か論議される機会はほとんどありません。防衛相の経験もある自民党のキリスト者石破茂幹事長は2013年4月に出演したテレビ番組で,国防軍に「審判所」という現行憲法では禁じられている軍法会議(軍事法廷)を設置し,徴兵拒否するなら,「死刑」「懲役三百年」と発言しました6) 。つまり日本では,戦前,戦時下と同じエートスが続いています。

 b. 初代教会の時代
 イェール大学のキリスト教会史家ローランド・H・ベイントンは,「新約聖書時代の末から,紀元170-180年ごろまでには,軍隊にキリスト教徒がいたという証拠はない」,と述べました7) 。キリスト教徒の墓碑銘から兵士であった者は見出されていません8)。新約の中で,イエスは,軍隊についての隠喩という仕方を用いませんでした。軍隊生活のたとえを一度も用いなかったことから軍務は不適当とみなしていたと考えるのが自然でしょう9)。初代教父のオリゲネス[182?-251]はプラトン主義哲学者ケルソス10)がキリスト教に非難した言葉を記録しています。「もし万人があなたと(キリスト教徒)同じこと(軍務を拒否)をしたならば,皇帝は孤立無援となり,世界の事物は最も不法で粗暴な蛮族の手におち,…」11)。つまりケルソスがキリスト者に対する非難のやり玉に,キリスト者は兵役につかなかったことがあげられています。三位一体という語を哲学との論駁の中で始めて用いたテルトゥリアヌス[150/160-220以降]も晩年,述べています。「信仰に入って洗礼を受けたならば,多くの人がしたように,直ちに軍務を去るか,それとも,軍務に就いていないときでも許されないようなことを神に逆らって犯さないために,あらゆる種類の逃げ口上を言うか,さもなければ最後に,市民の信徒でもやはり受け入れるべき運命を神のために耐え忍ぶかしなければならない」12)と,キリスト者はいかなることがあっても軍務を拒み,殉教という運命を覚悟するようにすすめています。

 しかし,コンスタンティヌス帝[コンスタンティーヌ1世 280頃-337年]の治世以前のアルル会議[314年]の頃には,キリスト教徒の兵士が軍務に服していた記録があります13)。キリスト教がローマ帝国の国教化(392年)に格上げになるやいなや,国の防衛意識に歩み寄るように意識が変わります。宗教が権力中枢と結びつき,妥協していくと,絶対的平和主義の理想は消滅します。正戦(just war,justum bellum)=世俗的戦争論が教父たちによって後押しされるようになります。「侵略戦争からの無力な民の防衛」という大義名分に,教理の裏付けが必要になります。ミサと言う語をはじめて用いたアンブロシウス[334-397]14)や,西方教会の神学の父と言われるアウグスティヌス[354-430]によって,戦争観が180度,変貌するのです。アウグスティヌスは,ドナトゥス主義との論争において,「正しい戦争」があると語ります15)。ドナトゥス主義者の一部が暴徒となってしまいローマ・カトリック教会を攻撃すると,407~417年,アウグスティヌスは一貫して帝政当局による武力弾圧要請をします。
 「正戦とは不正を正すところのものと定義されるのが普通である。すなわち,戦争を仕掛けられるべきは,民族や国として,その成員によって不正になされたことをただすのを怠ったり,不正によって横領したものを返却するのを怠ったりする場合である。しかし,神によって命じられた戦争も疑いなく正しい[ヨシュ8:1-2 参照]。神にはいっさいの不正がなく,誰にも起こるべきことを知っておられる。この戦争において,指揮官や参戦者は自ら戦争行為者ではなく,まさに奉仕者とみなされるべきである」16) と,正義の戦争が是認されるようになりました17)
 初期キリスト教の平和主義から脱線しはじめます。5世紀初頭に,「剣をとる者は,剣によって滅びる」(マタイ 26:52)という聖書の教えが曲げられていきます。本来は兵役を否定するはずのキリスト教が防衛行為なら人を殺してもよい神学を作り出します。ヨーロッパ全体がキリスト教を国教にすると,聖書は一般の民衆が読むことも禁じられるようになります。
 グレゴリウス7世[1020-1085]により,聖戦(holy war,praelia sancta)が唱道され,ローマ教皇ウルバヌス2世[1042-1099]は,フランスのクレルモンで,エルサレム聖地をイスラム教から取り戻すため第1次十字軍(1096-99年)を組織します。アッシジのフランシスコ[1182-1226]は第5次十字軍には非難することもなく参加して,戦いの悲惨さを思い知ります。フランシスコによりドイツに遣わされた弟子ジョヴァンニ・ダ・カピストラノ[1180頃-1252]はフランシスコ会を発展させます。聖人カピストラノは外国に対する戦争を奨励します18)。2世紀半にわたり,「神がこれを望んでおられる」(Deus lo volt)として十字軍のイデオロギーが正当化されます。十字軍遠征が神の意思であるように用いられたのは歴代教皇の責任と言えます19)
 イングランド王との百年戦争[1337-1453]でフランス王に勝利をもたらした軍人ジャンヌ・ダルク[1412-1431]は守護聖人Santo Patronoとして称賛されています。兵役につくキリスト者のために軍人である聖人が作られていきます。 

c. 神の戦士 ユスト高山右近
 スペイン,ポルトガルからのローマ・カトリック教会宣教師は短期間で日本中にキリシタン20)を布教します。戦国時代で価値観が大きく変わろうとしている時代でした。1614年には25万人のキリシタンがいたとする説もあります21)。ヨーロッパではローマ皇帝ネロ[37-68]たちにより弾圧されたにもかかわらず,キリスト者は生き延びました。韓国のキリスト者は第二次世界大戦戦時下,日本帝国の熾烈な統制によっても信仰を維持しました。一方,人類史上まれにみる残虐な迫害下にあって,日本では90パーセントのキリシタンが棄教していきます。なぜでしょうか22)。ひとつに,イエズス会内部の対立・抗争,二番目に,イエズス会と他の修道会との対立があげられます23)。陣取り合戦により,ヒエラルキーを急ごうとする競争意識があったのです。その結果,豊臣秀吉に疑心暗鬼を抱かせます。フランシスコ・ザヴィエル[1506-1552]たちも布教許可を申し出るために,時の権力中枢に近づこうとしました。支配階級を教化するのが手っ取り早いからです。高槻城主であった清貧な高山右近でさえ,仏教寺を廃寺にする方向で織田信長と密約しています24)
右近は「天正の禍」と称される宗教弾圧を行いました。キリスト教だけが神から是認された宗教と司祭から説き勧められた影響です。他宗は悪魔と排除するイエズス会救済観から仏像,神体を破壊したのです。2001年,ターリバーンがイスラムの偶像崇拝禁止の規定に反しているとしてバーミヤンの大仏(磨崖仏)を破壊したのと同じ動機と言えます。イエズス会司祭コエリョはキリシタン大名大村純忠と会談し,寺社破壊を約束し実行させます25)。初代準管区長コエリョは,有馬晴信の領地でフロイス司祭と行動を共にしています。キリシタンによる迫害,焼き討ちからもれていた仏像探索に狂奔したと記録されています26)。右近の精神的導き手であるオルガンティーノ司祭は巡察師ヴアリニヤーノに報告。寺社破壊を「善き事業」であり,「かの寺院の最後の藁に至るまで焼却することを切に望んでいる」と述べています27)

 高槻領主高山右近の所領には「1万4千人のキリシタンがおり,そのうち3千名内外は本年,(キリシタン)なった人たちであり,多数の僧院を破壊して幾つかの教会を建て,ほかにも6,7千名が洗礼を受けようとしている」と記しています28)。右近は寺領没収や徴発を行い,「役に立たぬものは焼き,また破壊し,適当なものについてはこれを用いて教会を建立した」29)。『摂津名所図会』を読むと,右近によって諸堂は焼かれ,灰尽に帰しました。御堂,社殿を教会に転用する目的でないことがわかります。「茨木神社,殊に当国は織田方高山右近在城し,此辺の神社仏閣を破却する事多し」(『摂津名所図会』参照)。良心者ならば,たとえ上司織田信長の命令であっても拒絶したでしょう。ユダヤ人虐殺に関与したアドルフ・アイヒマン[1906-1962]が裁判で「命令に従っただけ」と主張しても,免罪にならなかったことを人類は思いに刻むべきです。良心が問題です。当時,僧兵を有していた権門勢力,有力寺社について織田信長は容赦しませんでした。しかし,一般の寺社仏閣は領民の精神的支柱でした。祈願の場であった寺社破壊はキリシタン優位の宗教感情に起因するものでしょう。
 政治,軍事感覚の鋭い織田信長,秀吉は日本領土に対する教勢拡張に伴う中傷合戦の情報を入手します。イエズス会司祭であり,軍人出身の日本布教区責任者フランシスコ・カブラルのアジア人蔑視の姿勢も警戒感を強めさせる原因になります。キリスト教は他宗教に対して無反省の非寛容を貫いていました。ペルー,メキシコ,フィリッピンの二の舞を踏みたくなかったのです。1587年7月24日,秀吉の伴天連追放令が出されました。続いて,1597年には長崎で26聖人が処刑されます。話は脱線しますが,2008年11月まで,バチカン教皇庁は26聖人以外を除いて外国人宣教師である伴天連,つまり司祭たちのみを列福してきました。一方,殉教した庶民について,聖殉教者としてなかなか認めなかったことはカブラルのアジア人偏見の遺伝子があるのではと憶測してしまいます30)

 秀吉が弾圧する理由のひとつにカトリック教会内部の抗争が引き金になっていました。1600年にプロテスタントのオランダ,英国が上陸します。イエズス会による日本侵略は陰謀だとの進言により徳川家康の禁令が熾烈を極めることになります31)
 国際宗教である仏教はすでに日本の伝統思想の核になっていました。キリシタンが仏教思想批判をした非寛容な姿勢が禁圧される理由になったことはまちがいないでしょう32)。 
 隠れキリシタンに対する江戸幕府の弾圧は人類史上比類のない残虐さを示しています。殉教したキリシタンは「彼は希望するすべもなかったときに,なおも望みを抱いて,信じ」た彼岸のパライソ(天国)が見えたことでしょう。(ローマ 4:18)。筆者は考えます。あの弾圧下の潜伏時代に,京都,熊本県八代,五島列島などで続いた中でも,弱者,癩患者,浮浪者に世話しているキリシタンには迫害が及びませんでした。島原の乱のように武具を取らずとも試練,患難,迫害をくぐり抜ける少数の良心者はいたのです。

(2) 戦争拒否の思想
 a. 中世の衝突に抗って
 1517年の宗教改革に先がけて,平和主義のカタリ派33),ピーター・ワルドー[1140-1218?]による原プロテスタント運動ワルドー派34)がローマ・カトリック教会から異端として弾圧を受けます。さながらカタリ派は小笠原諸島に生息していたアホウドリ Phoebastria albatrus のようです。羽毛乱獲のために人間が近づいても警戒しないので,バカトリとも言われたりしました。ワルドー派もアルプスの白い山が殉教の血で真っ赤に染まるほど,カトリック教会によって弾圧されました。

 デジデリウス・エラスムス[1466-1536]はギリシア語による新約聖書を1516年に出版します。エラスムスは無知の追放と平和を聖書に基づいて発信します。ヨーロッパの民に戦争を根絶するようにキリストの言葉が堰を切ったように民の心に響きます。「めいめいが論敵の面目を葬り去るような毒舌の矢を放ち合っている醜態です。…無辜の人間を殺戮することではなく,人間の心から邪悪な激情を滅却することを目標としているのです」35)
 後に,エラスムス聖書はドイツ語に影響を与えるドイツ語ルター訳聖書のテキストとなります。
 「主よ,剣なら,このとおりここに二振りあります」と言うと,イエスは,「それでよい」と言われた。(ルカ 22:38)。「二振りの剣」の「剣」は文字通りの軍備ではありません。なぜなら,弟子がイエスを捕縛に来る時,携帯していた剣で兵士の耳を切り落とした場面があります。すかさず,「剣をとる者は,剣によって滅びる」(マタイ 26:52),とイエスは言っているからです。しかし,中世カトリシズムは「二振りの剣」とは教皇権と皇帝権のこととアレゴリー的解釈をします。「二振りの剣」皇帝は物質的な剣(gladius materialis),一方,教皇は霊的な剣(gladius spiritualis)のそれぞれの権威が神から授けられたと考えるようになります。2つの権力によって秩序が保たれるという二元論的支配のイデオロギーです。
 宗教改革によりプロテスタント教会が起こります。宗教改革者マルティン・ルター[1483-1546]は「キリスト者は戦えというなんらの命令をもたない」と同時に,上司の「服従からは戦うべきである」と二王国論に基づく一義的でない釈義があります。ミュンツァーの農民革命を弾圧することを承認してしまいます。ジャン・カルヴァン[1509-1564]もアウグスティヌスやルターと同様に旧約の例を引き合いに出します。戦争が秩序を維持するために必要な警察力とみなして正当化しました36)。俗化した教皇に抗うプロテスタント教会も聖書のみに立ち帰り,地上から正戦を除く影響力を行使できませんでした。
 プロテスタントの中で,聖書に基づくキリスト教非戦主義の流れを継承した,メノナイト派を起こしたメノー・シーモンス[1496頃-1561]は述べます。「ペテロの剣で守られることを望みたまわなかった。それなのに,どうしてキリスト者が剣で自分を守ることができようか」37)。ブレザレン派38),フレンド派39)も非戦の流れです。聖書に基づく平和主義を貫いていきます。「平和を実現する人々は,幸いである,その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ 5:9),というキリストの「山上の説教」がようやく芽生えてきたのです。カント[1724-1804]が「一緒に生活する人間の間の平和状態は,なんら自然状態(status naturalis)ではない。自然状態はむしろ戦争状態である。…それゆえ,平和状態は,創設されなければならない」,と平和について考えるだけではなく,実現のために立ち上がるように言ったことと符合するでしょう40)。カントは同じ章で,続いて「一民族に属する人間の国民法に基づく体制」,と述べます41)。憲法により他国へ武力干渉しないように縛る先見に満ちた提言をします。戦前のファシズムのような全体主義は絶対的な権力をもちます。人のいのち,人権,安寧を顧みませんでした。ですから憲法によって国の最高権力者をも縛る安全弁がどうしても必要になります。法律は民の権利や紛争に規制力をもちます。一方,憲法は権力をもつ君主,体制に対して拘束力をもちます。「朕は絶対で,お前たちがまちがっている」,と君主が言うならば,だれも逆らうことはできません。人間が自分自身を絶対視し,神になるなら倒錯行為です。暗黒時代,闇,死に突入です。神を絶対にする宗教性をないがしろにし,人間を絶対にするなら抑圧,暴力,いさかいが生じるでしょう。
 まだ諸国はカントの理想を謙遜に受け入れ,武力放棄の理想的な憲法が確立していませんでした。カントの願った「各国家における市民的体制は,共和的でなければならない」42),との条項も平和の実現には完全ではありませんでした。なぜなら民主的な共和制に移行しても,国民の熱狂,暴走によって権力が戦争に突入することも生じるからです。たとえばナポレオン戦争[1803-1815]が良い例です。旧来の衝突と異なります。軍人の戦いから国民の戦争に変化します。ナポレオン戦争に従軍したカール・フォン・クラウゼヴィッツ[1780-1831]は「戦争は一種の強力行為であり,その旨とするところは相手に我が方の意志を強要するにある」43),と戦争肯定論を世に紹介します。 
 クラウゼヴィッツの戦争論のエートスで世界は席巻されていきます。相手を完全に打倒して戦意を喪失させると戦争の本質が浮き彫りにされます。「戦争は…政治的継続におけるとは異なる手段を交えた継続である」とも述べました44)。しかし,戦闘行為は政治の異なる手段の継続と言えるのでしょうか。むしろカトリック法学者カール・シュミット[1888-1985]が「クラウゼヴィッツの有名な文句のように,『別の手段をもってする政治の継続』ではなく,戦争としての,独自の戦略的・戦術点その他の規則や視点をもつものであって,ただ,これらの規則・視点はすべて,誰が敵なのか,という政治的決定がすでになされているとういことを,前提とするものなのである」と述べるように,「誰が敵なのか,という政治的決定がすでになされている」と戦争が政治の継続ではないと批判しました45)。カントが「国際法は,自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである」と国際的な機関,つまり国際連盟,国際連合の国際法によって一つの世界共和国を発題します46)。一方,シュミットは国際連盟では戦争を防止できないと言います。なぜなら‘人類は一つ’というあいまいな考え方は,人類史上横たわる「敵」という概念に溶け込まないからという根拠です47)
 やがてシュミットは1933年ナチス政権登場を擁護する政治学者になります。世界的に通信,輸送,交易が活発になるにつれ,平和,非戦主義,友好の声が消されていきます。したがって,戦争論は百花繚乱のように,たくさんの意見,見解,論考が掃いて捨てるほどあります。どれも戦争抑止には功を奏していないではないでしょうか。

b. 第一次世界大戦の頃
 日本では,明治6[1873]年に切支丹禁令の高札が撤去されます。同じ年に徴兵令を公布。満20歳になると3年間兵役に服すこと,17~40歳の男子はすべて国民軍の兵籍に属します。日本を取り巻いているアジア情勢の中で,1854[安政1]年に綴った「幽囚録」の中で,吉田松陰[1830-1859]は「今急に武備を修め,艦()(そな)はり礟略ぼ足らば,即ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し,(すき)に乗じて加摸察(カムサツ)()(オコ)()()を奪ひ,琉球に諭し,朝覲(てうきん)会同すること内諸侯と比しからしめ,朝鮮を責めて質を納れ(みつぎ)を奉ること古の盛時の如くならしめ,北は満州の地を割き,南は台湾・()(ソン)の諸島を収め,(ざん)に進取の勢を示すべし」は日本がアジアに侵略することを奨励したことが具現化しつつあります。松陰は和歌「かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂」と謳い,日本人だけが到達できる大和魂に基づく「大日本主義」を唱えました。
 農家の者にとって,一家の労働力の柱が兵役にとられるのは生活していけなくなるので,反発が大きかったのです。従来の一揆と異なるのは,村吏(そんり),豪農層に対してではなく,絶対主義政府に武装して官兵に激発しました48)
 内村鑑三[1861-1930]は日清戦争[1894-1895]が開戦すると義戦論から非戦論へ変わります。「吾人は信ず,日清戦争は吾人にとりては実に義戦なりと。その義たるの,法律的にのみ義なるにあらずして,倫理的にまたしかり」49)
 聖書の研究により,非戦論になった内村の「不敬事件」も国家権力の前に挫折していきます。1902年,治安警察法が制定された翌年,安部磯雄[日本社会主義運動の先駆者 1865-1949],片山 潜[労働運動家 1859-1933],木下尚江[社会運動家 1869-1937],西川光次郎[1876-1940],川上清[ジャーナリスト 1873-1949],幸徳秋水[1871-1911]の 6名が社会民主党を結成。伊藤博文内閣によって即日解散を命じられます。人種差別撤廃や,軍備の全廃などを主張しました50)。非戦の活動は挫折に次ぐ,挫折の底なし沼にはまります。どんなに権力に抗っても,封印されます。
 1914年の第一次世界大戦勃発時には,世界的にもキリスト者も戦争に加担していきます。一方,ブレザレン派は良心者として行動します。「アルフレッドが平和主義者であることが知れわたると,ピアノ工場でいっしょに働いている人たちはだれも口をきかなくなった。教会でも同じだった。ミサのあと,礼拝に来ていた人たちは,アルフレッドの前で床につばをはいた」。1919年に強制労働から釈放されても,世間から白い目で見られます。戦争の恐ろしさを体験してもなお,良心者にはひきょう者,臆病者扱いをやめませんでした51)。しかし,非暴力こそキリスト者の生命線と考えたわけです。
 第一次世界大戦時において,道徳上,あるいは宗教上の理由で兵役につかなかった人数は,英国約16,000人(入隊者数の0.33%),米国約56,830人です52)。英国の5人は第二次世界大戦において兵役拒否で顕著なものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)のメンバーです。当時のエホバの証人の多くは第一次世界大戦時に参戦していました53)
 良心者は国内の対敵宣言により,追放,破門,人権剥奪や法的保護の停止が余儀なくされました。兵役を拒んだ者に対して,英国は激戦地へ派遣したり,命令拒否について密室の軍法裁判により,死刑や投獄を課しました。処刑する側にとり,敵国の兵士ではなく,同胞を敵と解釈して殺害するには自虐的な思考が必要でしょう。南京大虐殺[1937年12月13日]のように,無辜な中国市民に日本軍兵士が略奪,強姦,惨殺する極限の状況とは異なるからです。ちなみに日本では「自虐史観」の用語について倒錯した視座が独り歩きしています。アジアの被害者である日本軍「慰安婦」,強制連行された国々が用いるならともかく,加害者である日本人が言うから海外から見れば,こっけいに映るにちがいありません。非戦―戦争を阻止するエネルギーは軍神を頂点に抱く体制にとっては,平和主義者など飛んでいるハエにすぎません。簡単に打ち落とせるのです。シュミットが分析するような軍国主義者対平和主義者の政治的対決の構図にはなりませんでした54)。「味方」「敵」の対立の政治理論が正しいとするなら,民衆の中には良心者に同情した人々が続出していたはずですが,平和主義者に対して擁護する同調者は皆無に近かったのです。良心者は病を併発し,釈放される場合もありましたが,戦禍が進むにつれ,獄中にいる良心者は忘れ去られました。絶対的平和主義は現実からの逃避とみなされて,同じ国,同じ言語のムラ社会,精神風土で育った味方であるにもかかわらず,黙殺されたのです。
 兵役を拒否することにより,国のために武具を取らなかったことがヨーロッパの民主化に寄与したでしょうか。否。軍事政権に歯向かった殉教の轍は民主化の実現に貢献することもありませんでした。良心者の血の叫びは天に届かなかったのです。
 警察は拳銃を携帯しています。「…権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく,神に仕える者として,悪を行う者に怒りをもって報いるのです」(ローマ 13:4)の「剣」とは,軍人の「剣」とは異なります。警官は人を殺すために殺傷能力のある銃をもっているのではありません。一方,兵隊は多くの敵兵を殺すならば英雄とされ,勲章をもらうのです。警察が銃を用いるのは公僕として任されています。市民の安全,公共の福祉,社会の秩序を維持するためです。しかし,日本の右翼警官はテロのように暗殺の流血の記録をもっています。大杉栄[作家 1885-1923],平澤計七[労働運動家 1889-1923],河合義虎[労働運動家 1902-1923年]たち9名の労働運動者の殺害に関与します。関東大震災[1923(大正12)]の際,朝鮮人虐殺にも加担します。いずれにしても治安維持法などの大義名分で抹殺しています。公僕として市民に仕える使命より,天皇制強化のしもべとして行動しているのです。戦争は皇国にとり病理ではなく,生理です。
 警官が兵役に服するように強制しても,良心者は拒絶するため,尋問,説得,洗脳などに要する時間,体力,行程は非効率です。見せしめに投獄するのもそのためにかける労力も見合わないものです。非国民として摘発の根拠は,兵役拒否より天皇制批判=死刑へとエートスがはやし立てます。「まつろわぬ者を,まつわせる(服従させる)」統制により,国民の内面に「みそぎ」のように侵入したのです。義戦論者は平気で人を殺すものです。原 敬[たかし 1856-1921],浜口雄幸[宰相 1870-1931],井上準之助[大蔵大臣 1869-1932],団琢磨[実業家 1858-1932],犬養毅[いぬかい つよし 宰相 1855-1932],永田鉄山[陸軍軍人 1884-1935],斉藤実[宰相 1858-1936],渡辺錠太郎[陸軍大将 1874-1936],松尾伝蔵[陸軍大佐 1872-1936]なども殺害されました。宗教者以外に,共産党指導者岩田義道[1898-1932] 特別高等警察に逮捕され,その4日後に拷問により死亡,上田茂樹[社会運動家 1900-1932],西田信春[1903-1933]も獄死しています。密閉された刑務所で弱者の朝鮮人,女性は拷問,性的陵辱により発狂まで追い込まれます。小説家中本たか子[1903-1991]も獄中体験を記しています。民を監視し,刑罰を加える力学に良心者の平凡に生きる権利は抹殺されます。中世ヨーロッパの異端審問官のサディスティックな対象の獲物と同様に扱われました。

c. 第二次世界大戦の頃
 欧米においても,兵役を拒否した良心者に対して,残虐な刑罰と見せしめの虐待はなくなりませんでした。第一次世界大戦後,1919年,世界平和樹立を目的として国際連盟が提唱されます。戦争のもつ残酷さと憎悪の覆いで不可視になっていた人間性の回復の光明がさしかかりました。しかし,枢軸国が台頭すると,「良心の自由」より,国体の維持,護国,先制攻撃がメディアの主題で活気を帯びます。
 国際的に,軍事教練法,兵役法,拷問などの徴兵法がやっと廃止になろうとする矢先です。非暴力にたちあがった者は,武器の所持,保管の公務に就くこと,戦争,防衛または狩猟用の銃器を所持,保管すること,武器,弾薬の製造,修理,取引について拒絶する良心者がベルギー,オランダ,イギリス,アメリカなどで非戦闘の民間代替作業に従事することを自発的に申し出るようになりました。裁判で服役の刑に裁定され,上訴の道がなくても良心者たちは非戦にひるまなくなりました。
 「民衆は戦争防止のために自衛的最善の努力を払わねば駄目だ。浅薄な敵愾心にかられて自ら墓穴を掘ってはならぬ。戦争は人類の最大の不幸だ。」と軍のエスカレートに疑義を申し立てる仏教者も登場します55)
 310万人が第二次世界大戦で犠牲になります56)。兵士だけでなく,一般の民の命も暮らしも奪います。戦後,「まともな戦争ではなかった」と日本でも,一般に,キリスト教の三大戦時下抵抗集団としては,灯台社,プリマス・ブレザレン(1941年検挙),耶蘇基督之新約教会(同)があげられます。明石順三と灯台社が日本のキリスト教界において,最大の戦時下抵抗の個人と集団でした(「福音と世界」新教出版社 1973年8月号)57)。灯台社は1939(昭和14)年6月21日に第二次検挙。全国91名一斉検挙で,他に台湾でも9名検挙のうち2名獄死,朝鮮にて38名検挙中支部長以下5名も警察で拷問を受け,死んでいます58)。作家小林多喜二[1903-1933]は2月20日,検挙直後の連続6時間の拷問によって夕方絶命しました。不敬罪という「踏み絵」にいずれも免罪とならなかったのです。「毛糸の腹巻に半ば覆われた下腹部から左右の膝頭へかけて,下腹といわず,尻といわず,前も後も何処もかしこも,まるで墨とベニガラを一緒にまぜ塗り潰したような,何ともかともいえないほどの陰惨な色で一面に覆われている。その上,余程多量な内出血があると見えて,股の皮膚がぱっちり割れそうにふくらみ上がっている。…よく見ると赤黒く膨れ上がった股の上には左右とも,釘か錐かを打ち込んだらしい穴の跡が156以上もあって,そこだけは皮膚が破れて,下から肉がじかに顔を出している。…人差し指を反対の方向へ曲げると,らくに手の甲の上へつくのであった。指が逆になるまで折られたのだ」と多喜二の検死をした30余人の眼をしめつけたのです59)
 人間は拷問に耐えられるのでしょうか。宗教者なら大丈夫ですか。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず,試練と共に,それに耐えられるよう,逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリント 10:13),と信じ,官警の非道,執拗,残虐な仕打ちの中のどこに「逃れる道」があるのでしょうか。安息への「逃れる道」などありません。発狂するか,自死を選ぶか,転向(背教)への署名を迫られます。刑吏,異端審問官の言う通りに平気で戦場で人を殺めるロボットになる方がいいか,それとも二度と出所できない牢獄,絞首刑,電気椅子がいいのか,宗教者でも即答できません。キリシタンに対する処刑には,斬首,はりつけ,火炙り,水責め,氷責め,俵責め,竹鋸切り,溺殺,つるし責め,穴吊り,算木責め,鉄砲責め,駿河問い,婦女凌辱,手足の指や鼻の切断,雲仙地獄の熱湯責めなどがありました60)。キリシタンの多くは棄教しました。宗教,特定の思想,道徳では拷問に耐えられないのです。それでも決して転向しなかった信者もいました。200年近くの禁令が解かれた時,信仰は土着化してしまっており,カトリック教会に戻らない信者も少なくありませんでした61) 。300年近く,少数のブレザレン派は弾圧,迫害,殉教の辛酸をなめてきました。「木には希望がある,というように木は切られても,また新芽を吹き 若枝の絶えることはない。」(ヨブ 14:7),と。木は切られても若枝が出てくるように,聖書に基づいて希望を心に刻んでいる(血を流さずに刻む,彫るはできない)なら信仰を維持できる証しでしょう。
 1986年,私が,アメリカから夏休みを活用してキャンパスクルセードで来日していた福音派の若者たちと淡路島に海水浴に行く機会がありました。浜辺で兵役拒否について聖書から論じ合うと,「臆病者」と非難されました。自分のいのちが惜しいかどうか,真剣に自問しました。いのちが惜しいなら責任ある行動ができません。「キリストの兵士」ならば,「わたしたちは,生きるとすれば主のために生き,死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って,生きるにしても,死ぬにしても,わたしたちは主のものです」(ローマ 14:8),と神に応答する(responseレスポンス)責任(responsibilityレスポンスビリティ)があります。つまり,兵役を拒否し,無抵抗の抵抗は,臆病ならできません。なぜなら秘密裏の軍事裁判,肉体的・精神的拷問,獄死を覚悟しなければならないからです。
 イタリアのカトリック伝統の強い地域にあってもエルネスト・バルデューチ司祭は新聞に,1962年,投書しました。「原爆の発明以来,教会は権威的な態度をもって前面戦争は正義でないと宣言した。それに従うならば,カトリック信徒は全面戦争から逃亡する権利どころか,私に言わせれば義務をもっている」と62)。新しい非戦のうねりの動きが芽生えました。
 2013年9月17日,国連の人権理事会が兵役拒否の権利についてはじめて話し合いました(国連欧州本部の国連人権理事会4会期)。「各国に良心的兵役拒否を許容することを検討するよう呼びかける」と採択されました。会に出席した東京造形大学教授前田朗氏は語ります。「第一次大戦時には,イギリスでもドイツでも,兵役拒否者は死刑だった。1000人規模で死刑になっている。第二次大戦時には,懲役刑だった。日本でも兵役拒否は犯罪だった。第二次大戦後,徐々に変わってきたが,第1に,兵役義務のない国家が増えた。アメリカでさえ志願制だ。第2に,良心的兵役拒否を認める国が増えた。「良心的」の解釈は国によって違い,明確な宗教的理由でなければ認めない国もあるが,ともあれ兵役拒否が徐々に認められるようになっている。ミクロネシア連邦憲法には兵役拒否の権利が明記されている。それでも,韓国やイスラエルのように兵役拒否を犯罪としている国もある」63) 。韓国では強制徴兵制度が実施されており,兵役法によれば20歳から30歳の健康な男性は少なくとも21カ月間の兵役に就く必要があり,これを拒むと1年~3年の懲役に処されます。兵役拒否の流れは宗教者だけのものではなくなってきています。なぜなら良心者は処罰されるべき敵ではないからです。絶滅されるべき犯罪者,非人間として有罪になる憎悪の対象ではないからです。
 日本のマスコミが,兵役拒否の国連の論議に無関心なのはどうしてでしょうか。社会の人権意識が希薄なことや,安倍晋三政権による憲法9条を殺す勢いに消されています。良心者としては,憲法9条を護るより「活かす」平和な国であってほしいと願います。

(3) 絶対平和主義
 a. 危機にある自分の国を見捨てることになるのか
 外国の軍隊の侵入は自国を占領下におくので,家庭に泥棒が押し入るのをただ傍観しておくことができないのではと,良心者に問うでしょう。クラウゼヴィッツ支持論者でなくとも,戦争は必要悪と主張する空気が日本列島を覆っています。世界で一番古い非戦論を体系的に述べたのは中国の墨子ぼくし[紀元前450-390頃?]です。墨子は上・中・下に分けて『非攻』篇を書いています。「非攻」とは侵略戦争に対して否定,防止をする行為です。墨子は自ら「賤民」の出であることを広言し,各地を転々と仕事を求めながら移動する工人の群れの指導者でした。「一人を殺さば,これを不義と謂い,必ず一死罪あり。…いま大いに不義をなし国を攻むるに至りては,すなわち非とするを知らず,従いてこれを誉めてこれを義と謂う」64)。18世紀まで,墨子の思想は黙殺されていました。

 オランダ商館などで学んだ青森県八戸の医者安藤昌益[1703-1762]は墨子と著しく共通した平和観をもっていたにもかかわらず,記していません。儒教の精神,先生,親,君主に対する礼節を重んじる孟子たちの教えが主流になります。昌益の耳に墨子の非戦論は届かなかったようです。昌益は中国王朝の興亡史だけでなく,「記紀」(古事記,日本書紀の総称)を研究し,『自然真栄道』を著します。書の中で,「治」(=構造的・間接的暴力)と「乱」(=人的・直接的暴力)による他国への侵略,略奪,盗乱について戒めます。「金銀の通用を()すが故に,(ばい)(ばい)()(よく)の法盛んにして,天下の利慾大いに募り,漢土(かんど)(中国)より天竺(てんじく)(インド),阿蘭陀(おらんだ),日本を奪はんとし,日本より朝鮮を犯し,臺灣(たいわん)を取る。金銀通用賣買の法を立て,自由足り,(おご)りを爲し易し。侈りは(らん)の根なり」65),と「乱の根」を分析しています。諸外国への侵略戦争について軍事,経済両面の野望から発生するとクリティック[批判]しているのです。戦争の対極である「平和状態」の思想家が日本の江戸時代にいたことは特筆すべきでしょう。昌益は,神功皇后の三韓征伐,豊臣秀吉の朝鮮半島侵犯,薩摩藩の琉球支配,松前藩のアイヌモシリ[人間の静かなる大地]侵略などを否定します。『孫子』冒頭の「兵は国の大事」を批判し,「兵は国の乱具なり」と発信します。「兵は凶器なり。止むを得ずして之を用ふと云ふは,止むを得ずして盗業を爲すと言ふに同じ」66),と語る先人がいたことを日本人は誇りに思うべきです。
 昌益,墨子の「非攻」の非戦論こそ,見直すべき人類の指針です。良心者は,自分の国に対する反逆者でもなければ売国奴でもありません。為政者の政治形態を転覆し,奪取して,新たな政権をつくる目的を持ち合わせているのでもありません。「世間虚仮こげ」を説いた聖徳太子は世俗の営みを批判しておきながら,政治の中枢に立ちました。非戦のためのたたかいは,体制に対してノンと言うアナキストではないと同時に,自分が現体制に取って代わる権力意志を持ち合わせているのでもありません。良心者は政治中枢で清濁併せ呑む器量を持ち合わせてはいないからです。国家権力の全体を否定するのではなく,あくまでも軍事的権力に対する抵抗です。
 キリストがエルサレムの神殿で,両替商人たちをむちで追い払われた場面から暴力を肯定できるのでしょうか。「イエスは縄で鞭を作り,羊や牛をすべて境内から追い出し,両替人の金をまき散らし,その台を倒し」(ヨハネ 2:15)。「むち」は当時,罪人に刑を課す際に用いる無数の金属片や骨片を縫い付けた革の鞭(ラテン語 fragellum『ウルガタ訳聖書』[405年])ではありません。神を礼拝する場所を「強盗の巣靴」(エレミヤ 7:11; ルカ 19:16)にしていることに対する「権威と懲罰のしるし」です。キリストはむちで何を打ちましたか。イエスがむちで打ったのは両替人の金やその台です。人を打っていません。
 キリストは百人隊長を褒めたりもしました。他の箇所で百人隊長コルネリオが信仰をもった時,職業を変えるようにと聖書に書かれているでしょうか。「コルネリオ会」という日本には自衛官の信仰者グループがあるくらいですから,軍人が初代教会にもいたとしてもおかしくないと考えるのは中世からのキリスト教界のエトスです。百人隊長の話はどんな職業であれ,すべての人がキリストに引き寄せられる証しと考えるのが自然です。マタイの福音書 8章の百人隊長にしても信仰を褒めたのであって,軍人の職業をほめたのでもなければ,認めたのでもありません。「わたしは地上から上げられるとき,すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ 12:32)。
 キリスト者が「キリストの兵士」(Ⅱテモテ 2:3)と言われるのは,武具をとって敵を打ち負かす役割ではありません。祈りによって平和をつくるキリストの兵士だからです。したがって,武具をとらない神の戦法を実施する良心者こそ真のキリストの兵士と言えるでしょう。 

b. 自分が愛する人が犯されても信念を貫く価値があるのか
 戦時下であれば,自分の愛する妻,娘,姉妹が敵軍に犯される事態は必ず生じると言えるでしょうか。確率から考えても,非常に低いわけです。さらに,自分が相手国の軍隊とのはざまに立って,銃を取る決断を迫られる場面に遭遇する可能性はどれくらいあるでしょうか。戦争という極限の状況に自分が従軍すれば,そんな非道の行為が防止できるどんな確かな保障があるのか,だれも答えられないでしょう。日本軍は,沖縄でも,本土でも敗戦色が濃厚となってきて,鬼畜米英が上陸すれば,女性はすべて強姦されるとマインドコントロールしました67)。日本兵の嘘の呪縛によって,手榴弾で自害した琉球女性の数は少なくありません。しかし,女性達は米軍の占領下になったとき,必ずしも凌辱されるとは限りませんでした。慰安婦たちは,日本軍の監視から自由を得ることができるようになりました。

 自分が愛する人が犯されても信念を貫く価値があるのか,という問いに,ヒットラー政権打倒に立ち上がった出来事から考えてみましょう。ナチズムの呵責のない圧政,抑圧,差別に決然として立ち上がった牧師ディートリッヒ・ボンヘッファー[1906-1945]がいました。ヒットラーが世にいる限り,何の罪もない人々は毎日,殺されていきます。暴君を放置すれば暴君の殺戮を容認していることになりまいか,とボンヘッファーに迫ります。十戒の「汝,殺すなかれ」と平素,教会の講壇から語っている聖職者として,ヒットラーを暗殺するかどうかは軽々に決定できない課題でした。しかし,ボンヘッファーは殺人鬼を取り除くしかないと計画しました68)。計画は1943年に発覚し,1945年4月に絞首刑になります。もし計画が実行され,首尾良くヒットラーを殺しても,第二の後継者である偏執狂の独裁者は情け容赦なく,さらに一滴の血でも多く,粛清に次ぐ粛清の恐怖政治を増幅していたことでしょう。つまり,復讐の論理は新たな流血を産むという歴史の教訓を学ばねばなりません。「恨みを抱かない」(「相手の悪の統計を数えない」の意)のです。(Ⅰコリント 13:5)。「あなたがたも聞いているとおり,『目には目を,歯には歯を』と命じられている。しかし,わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない 」(マタイ 5:38,39)を全うするのです。1世紀のキリスト者も,むごい虐待にも仕返しをしませんでした。絶滅しなかったのです。生きながらえました。いかなる権力も根絶することはできません。「自分で復讐せず,神の怒りに任せなさい。『《復讐はわたしのすること,わたしが報復する》と主は言われる』と書いてあります」(ローマ 1:21)。
 敵国の襲来があると仮定して,かつてのソ連収容所で奴隷のような扱いを受けるくらいなら戦った方がましだという論理にも踊らされてはなりません。奴隷制は酷ではありますが,だれが悪いかというと収容された本人ではありません。一方,戦争に従軍する場合,だれが悪いかというと武具を取った者です。「人を殺してはいけない」のです。いのちに対する視座の持ち方により,正義に基づいた行動が異なってきます。
 戦争は必要悪だからと考えなくてもいいのです。武器をとらなくても紛争,不和,対立は解決できます。
 非暴力のマハトマ・ガンジー[1869-1948]69)や,マルチン・ルーサー・キング牧師[1929-1968]70)たちは,武具を取らずに,勝利しました。歴史が証明しているでしょう。いわれのない残忍な迫害を被っても,「キリストもあなたがたのために苦しみを受け,その足跡に続くようにと,模範を残されたからです」(Ⅰペテロ 2:21),と苦縁を受けとめるのです。非暴力・非服従を貫く勇気は国,民,郷土を愛する動機に基づいています。「悪に負けることなく,善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ 12:21),と書かれていますように,臆病ならば悪に勝てないでしょう。

 c. 良心に従う
 教皇ヨハネ・パウロ2世[1920-2005]は2003年3月20日,「過去への反省なしに未来への前進はありえない」と過去千年の間にキリスト教徒が犯した罪の赦しを乞うように訴えました。何世紀も紛争が続いた英国・北アイルランド。武力を背景にした支配のヒエラルキーは連鎖を招くだけです。2013年6月,英国の北アイルランドの隔離されたロックアーンのリゾートホテルで主要8カ国首脳会議(G8サミット)を開催しました。アイルランドにおけるローマ・カトリック信者居住区と英国聖公会信者居住区の間には50箇所の壁があります。双方の武装衝突による敵対関係はいまだに取り除かれていません。北アイルランド・ベルファスト東部のプロテスタント地区にはさまれたカトリック地区ショートストランド付近で2014年6月20日,両勢力の大規模な衝突が発生したりします。分断と憎しみは双方が聖書に立ち帰らない限り取り除かれないでしょう。

 領土問題は国の固有の面積の問題だと思い違いをしてはなりません。昔の戦争は敵国に侵入して,降伏を力尽くで奪い取りました。しかし,現在の戦争は相手の国土に攻め入ったとしても,そこに居住する民が占領する国に従わなければ占領したことにはなりません。つまり他国の領土に侵入し,領土を拡張する陣取りゲームような戦争は過去の戦争でした。たとえば,軍隊のない国々である無防備のコスタリカ,パラオ共和国,キリバス共和国,バヌアツ共和国,サモア独立国,モルジブ共和国,モーリシャス共和国,アンドラ公国,サンマリノ共和国,モナコ公国,リヒテンシュタイン公国,アイスランド共和国,ドミニカ国,ハイチ共和国,パナマ共和国などに軍事強国は攻め入りません。なぜならコスタリカならば,コスタリカ人が侵入を歓迎しなければ,戦争の意義がないからです。
 キング牧師は非暴力によるバス・ボイコット闘争を呼びかけました。その結果,公民権法を成立させ,黒人と白人の間の壁を低くしました。ボイコットとはチャールズ・カニンガム・ボイコット[1832–1897]からとられました。英国人ボイコットはアイルランドで小作人たちから一斉に反発されたことに由来しています。北アイルランドも武力侵攻によって,面積を征服しても民が喜ばないなら徒労に帰します。クリミア,ドネツク,ドニエストルにロシア軍が遠征するのは在住の民が支持するからです。尖閣諸島,竹島にしても歴史的に固有の領土と主張し合うなら,かつて7つの海を支配した大英帝国の勢力図で地球上の約五分の一が埋め尽くされてしまうことを想起する冷静さが求められます71)。北方領土にしてもかつての我が師末次氏が沖縄に続いて返還運動に心血を注ぎました。1970年,私は英字機関紙“Unified World”の編集の責任があったゆえに,北方領土返還についての自分勝手の正義(Selbstgerecht)は顔から火が出ます。若気の至りではすみません。ファナティックな原理主義でした。歴史的な先住性をテーマにするなら,ロシアも日本も資格がないことに気づかねばなりません。クリル諸島(アイヌ語「私たち民族が住んでいます」の意)は先住民族アイヌに返還すべきだからです。領土問題の解決が長引くのはナショナリズム,主権国家,国境が横たわっていることが原因です。
 戦時下で非戦を貫く良心者は,ボイコットのように,命惜しさに故郷英国へ逃げ帰るような居場所がありません。「かくすれば,かくなるものと知りながら,やむにやまれぬ」といのちを危険にさらすのです。自分だけでなく,家族が地域,会社,学校で白い目で見られます。ボーナス賞与,退職金,失業手当なども剥奪され,家族から自死者が出ることも余儀なくされます。
 9・11テロ以降,「平和」は幻想となりました。イスラム=テロという思考停止に陥ったのです。「私たちの文明が生き延び,存続してきたのは,過ちを犯すたびにそれを認め,その多くを正してきたからだ」,と戦争のために敵愾心を煽ることをやめる叡知が必要です72)
 したがって,いかなる国においても,良心者は武器を棄てる決意について,公平に構成された裁判所(軍法会議)で,自分の平和理念を語れるように認められる社会を作るように働きかけをします。審理経過は秘密保護法案のように政府首脳,首長,警察官僚だけが知っているのではなく,公開されることを願います。どんな思想,イデオロギー,体制の国であっても,良心者に死刑を科することがあってはならないでしょう。良心者は軍事教練,軍隊で要求される義務を免除されるような法律ができることを訴えます。時には非戦闘作業に従事できる条件付きの証明書を性別に関係なく適用されるような国際的な協定ができればと要請します。
 ヘブライ語の平和は,シャロームです。原意は「完成,全体」であり,動詞のシャレムに由来します。シャレムはカル態なら,「完了する,欠陥が伴わない」,ピエル態で「完成する,安全にする,完璧に元通りにする」の意をもちます73)
 「欠陥が伴わない」とは暴力の不在(減少)でなければならないでしょう。「暴力の不在として理解される平和」と唱えたヨハン・ガルトゥング[1930- ]の定義の実現が求められています74)
 戦後世代であっても,アジア諸国に旅行へ行き,戦時下の日本軍の占領地域跡に立つと,恥ずかしい思いになります。残虐な行為があった施設,碑,塔の前で語り部に耳を傾ける際,自分はまだ生まれていないから責任がないと逃れられません75)。 父は関東軍兵士でした。69歳で亡くなる時まで,戦時中のことを上官の命令通り,吐露しませんでした。精神的に苦悶していたことはわかります。国民徴兵制を主張した日本陸軍の創始者大村益次郎[1824-1869]から「鳩居堂」で学び,後に教えるようになった曾祖父についても存在しなかったかのように生きるわけにはいきません。過去を変えることはできないのです。過去に眼を閉じる者は現在にも眼を閉じることになるでしょう。なぜなら私たちは戦前世代とは関係なしに,別天地から突如として生を受けたのではありません。人は土から形づくられ,土に帰るとするなら,日本の「土」つきの日本人なのです。日本という国家,民族の同胞,共同体,言語で生まれ,育ち,生活しているのです。江戸時代,宗門人別改帳でも違反する場合,連座制がありました。戦前,戦時下では,軍の規律において連帯責任を科せられてきました。したがって,私たちの人となりは自分一代でできあがったものではありません。祖先から何世代にもわたって受け継いできた複合体と言えます。戦前世代の残した負債を私たちは償うことによって国際社会の一員としての自覚をもてるでしょう。過去の侵略を忘却することは「第二の罪」になることを自覚しなければなりません76)。自分たちの父,祖父たちが加害者であったことを否定することは,国が再び同じあやまちをすることにつながります。ドイツの「過去の克服」の努力と日本は対照的です77)。国境が高くなれば人は戦場で殺し合うことも平気でやります。敵の戦死者に手を合わせることもしません。武具を棄て人間性豊かな平和な世界を築き上げていきましょう。

<結論>
  非戦を唱えることは臆病者という烙印が押されます。臆病とそしられても,武具を棄てるには勇気がいります。「体は殺しても,魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ,魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ 10:28)の決断があれば,挫折しないでしょう。富,名声,権力を得るために生きる生き方とは相容れません。非戦を唱えて成功への道を中断することを「犬死」と人は蔑むでしょう。鼻で息する人間の評価によって,魂を売り飛ばすわけにはいきません。
 国体は不朽ですか。国を愛するから武具をとり,戦うと決意していても,国は永遠に続くとは限りません。無条件降伏に再び,追いやられるでしょう。ローマ帝国のような起伏,興隆,滅亡にならない保障はありません。国を愛するが故に戦闘行為につく非人間化に無感覚,鈍感,無化してしまう危険姓から覚醒しなければなりません。真に国を愛するなら,いのちを顧みる選択に古今東西,普遍の導線があるでしょう。「汝殺すなかれ」。殺生をしない非戦の誓いは永遠のものです。「己れの生涯はこの一筋の道にかかる」(松尾芭蕉[1644-1694] 奥の細道)の気迫をもちましょう。永遠の証しのために生きるのは臆病者ではなく,勇者だけができる証しです。

出典 

1)  サクラメントは軍事用語。ローマ軍の兵士がローマ皇帝に対して忠誠を誓う際,用いられていた。
2)  『兵役を拒否した日本人』(稲垣真美 岩波新書 1972年 118-121頁); 拙稿『神戸と聖書』(「神戸と聖書」編集委員会 神戸新聞総合出版センター 2001年 209-212頁)。
3)  『平和の思想的研究』(宮田光雄 創文社 1978年 45-46頁)。
4)  『徴兵制と良心的兵役拒否』(小関隆 人文書院 2010年46頁)。
5)  同 50-52頁。
6) 『東京新聞』(2013年7月16日付)。
7) 『戦争・平和・キリスト者』(R.H.ベイントン 新教出版社 中村妙子訳1963年 83頁)。
8) Catholic and Conscientious Objection James H. Forest Catholic Peace Eellowship。

9) Christians and the Military The Early Experience John Helgeland, Robert J.Daly  andJ.Patout Burns Fortress Press 1985 『古代のキリスト教徒と軍隊』(小阪康治訳 教文 館 1988年 49-50頁)。
10) 『キリスト教人名辞典』(日本基督教団出版局 1986年 554頁)。
11) 『ケルソス駁論』Ⅷ.68a (オリゲネス「西洋史学」21 秀村欣二訳 西洋史学会1954年 35頁)。木寺廉太は,『ケルソス駁論』Ⅷ.73dを援用し,オリゲネス[182?-251]は「キリスト教徒は決して参戦しないと名言している」と言及。『古代キリスト教と平和主義』(木寺廉太 立教大学出版会 2004年 70頁)。
12) 『テルトゥリアヌス』4(キリスト教教父著作集第16巻 教文館 2002年 304頁)。拙稿「キリスト教と死刑制度」―聖ヒッポリュトスの使徒伝承―(地球市民の会 神戸市立外国語大学 2009年 7頁)。
13) アルル会議 De his qui arma proiciunt in pace, placuit abstineri eos a communione. 「平時に武器を捨てる者については,交わりから遠ざけねばならない事を定めた」と脱走兵について破門にする処分を決定してい。Historia Ecclesiastica Ⅳ Eusebius Caes. 241 p.48。「国家と教会との間に平和が支配しているので,キリスト教徒の兵士は義務を果たすべきであり,脱走兵は教会から処罰される」C.J.Hefeleと解釈する見方などもある。

14) アンブロシウスは「野蛮人に対して祖国を守る戦闘」について兵役を義務として述べる。De officis Ⅰ Ambrosius 27 129 =PL 16 61B。
15)  De civitate Dei Ⅴ Augustinus praefatio = CSEL 40,4 『神の国五』(アウグスティヌス 服部栄次郎訳 岩波文庫 1991年 87頁)。
16) The Just War in the Middle Ages F.H.Russel Cambridge 1975 p.16-54.65-68; 大鹿一正・大森正樹・小沢考訳(『トマス・アクイナス神学大全』第17 冊[創文社・1997 年]81 頁)。
17)『聖書と戦争』(ピーター.C.クレイギ 村田充八訳 すぐ書房 2001年76-77頁);『戦争と聖書的平和』(村田充八 聖恵授産所出版部 1996年 83頁); 『神の国 五』(アウグスティヌス 服部英次郎訳 1991年 57頁)。
18)『戦争・平和・キリスト者』(同 152頁)。19) 「正しい戦争はあるか」(ハンス・ユーゲン・マルクス 南山神学第27号 2004年 14頁)。20) 明治初期に至るまでのキリスト教(カトリック)を意味する。(『新カトリック大事典Ⅱ』新カトリック大事典編纂委員会 尾原悟 研究社 1998年 409頁)。
21) 『新カトリック大事典Ⅱ』同 片岡瑠美子 419頁。拙稿「日本のキリスト教会 キリシタン時代」(キリスト教の世界シリーズ 神戸バイブル・ハウス 2004年 7頁)→ 1940年に『バレト写本』をバチカンで発見したヨゼフ・フランツ・シュッテによると,ラテン語資料では,受洗者数28万人[1579-1627],幼児洗礼約35万人,『日本イエズス会史序論』(Introducto ad Historian Societatis Jesu in Japonia 1549-1650 Roma, 1968),『日本史料集Ⅰ』(Monumenta Historica Japoniae Ⅰ Roma, 1975 ゼフ・フランツ・シュッテ 上智大学キリシタン文庫)。『日本キリシタン史』海老沢有道 塙書房 1990年 146-147頁)。
22) 拙論 「日本のキリスト教会 キリシタン時代」(キリスト教の世界シリーズ 神戸バイブル・ハウス 2004年11月9日)。 <註> ばてれん Padre (ラテン語の神父 ぱーどれ)後に伴天連。
23) 『南蛮のバテレン』(松田毅一 NHKブックス 1973年 129,133,187-202頁),『キリシタン研究』第28巻(キリシタン文化研究会 フィリッピンのスペイン系イエズス会と日本布教志向1581-1586 (上) 1988年 3-59頁)。
24) 『日本キリシタン史』(同 215頁),Cartas do Japao, Evora 1598 Ⅰp.423)。
25) 『フロイス日本史』10 (中央公論社 第二七草 第一部104章)。
26) 『十六・七世紀イエズス会日本報告集』Ⅲ6(同朋含 1991年 一八四号98,99頁。
27)  同  Ⅲ5 一四六号 8-10頁。
28)  同    一七四号 259頁。
29)  同  Ⅲ6 一八四号 205頁。
30) 拙稿 「日本のキリスト教会 キリシタン時代」(同 2004年 6頁)。“1863年に,教皇ピウス9世は日本26聖殉教者を列聖しているが,1619年の京都鴨川の52名の殉教者はなぜ聖人として列福されないのか。”と疑義を投げかけたが,2008年11月24日には,長崎で188人の列福式が挙行され,52人も福者として含められた。(拙稿 「神戸バイブル・ハウスニューズレター」No.31 KBH出版委員会 2008年 1頁)。
31) 『日本キリシタン殉教史』(片岡弥吉 時事通信社 1979年 180-181頁)。
32) 『日本史2』(キリシタン伝来のころ ルイス・フロイス 柳谷武夫訳 平凡社 1993年 258頁),『キリシタン・バテレン』(岡田章雄 日本歴史新書 1977年 56-90頁),『日本キリシタン史』(同 195,230頁)「直接悪魔に奉仕する大なる詐欺漢で魔術師」と神仏習合のみならず,それに付随する信仰習俗の一切を否定した。
33) “みずから武器を取って戦った例は見出されていない。”『異端カタリ派の研究』(渡邊昌美 岩波書店 1989年 277頁)。
34) “彼らが戦争や裁判においても,あらゆる宣誓と殺人を厳しく拒否した”『中世異端史』(ヘルベルト・グルントマン 今野國雄訳 創文社歴史学叢書 1974年 60-61頁)。
35)『平和の訴え』(エラスムス 箕輪三郎訳 岩波書店 2000年 28,35頁),「キリストを宣教するものは,平和を宣教し,戦争を宣教するものは,キリストとは似ても似つかぬものを説いている」(Opera Ⅳ Erasmus 626-628, 630, 635 James M.Stayer 54)。
36) 『平和の思想的研究』(宮田光雄 創文社 1978年 54-57頁)。
37) オランダのメノナイト派の創立者。『良心的反戦論者のアナバプティスト的系譜』(榊原巌 平凡社 1974年 294頁 The Complete Writings of Menno Simons Blasphemy of John of Leiden 1496-1561 p.45)。
38) ドイツのシュヴァルツァッハのアレグザーンダ・マック[1679-1735]が,7人と共にブレザレン派を創立。1871年頃から,非戦のプロテスタントとして知られる。メノナイト派(メノナイト・ブレザレン),フレンド派(クエーカー,キリスト友会)と並んで三大歴史的平和教会 historic peace churches と称される。 
39) ジョージ・フォックス[1624-1691]によって1648年にフレンド会(友会徒 Friends)が作られる。メンバー以外はクエーカー(Quaker)教徒と呼ぶ。
40) 『永遠の平和のために』(カント 宇都宮芳明訳 岩波文庫 1993年 26頁)。
41) 同 27頁。
42) 同 28頁。
43) 『戦争論(上)』(クラウゼヴィッツ 篠田英雄訳 岩波文庫 2000年 29頁)。同書の下巻で,44) 同(下) 1997年 316頁。
45) 『政治的なものの概念』(カール・シュミット 田中浩・原田武雄訳 未來社 1994年 27頁)。“敵とは公敵であって,ひろい意味における私仇ではない。ポレミオス[政敵]であって,エヒトロス[私仇]ではない。ドイツ語には,他の諸国語同様,私的な「敵」と政治的な「敵」との区別がないので,多くの誤解やすりかえの生じる可能性がある。よく引用される章句,「なんじらの敵を愛せ」(マタイ伝 第五章44節,ルカ伝第六章27節)は,[ラテン語では]「なんじらのinimici[私仇ら]を愛せ」,[ギリシア語では],「なんじらのエヒトロスすべてを愛せ」であって[ラテン語の],「なんじらの hostes[公敵ら]を愛せ」ではない。”とシュミットは「敵」を競争相手とかではなく,政治的に限定する「敵」概念を主張する。しかし,キリストが「敵」について愛せない対象すべてを指していることは言うまでもない。「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし,何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば,たくさんの報いがあり,いと高き方の子となる。いと高き方は,恩を知らない者にも悪人にも,情け深いからである」(ルカ 6:35)。
46) 『永遠の平和のために』(同 38-45頁)。
47) 『政治的なものの概念』(同 62-63頁)。シュミットは60頁で,“無防備の国民には友しか存在しない,と考えるのは,馬鹿げたことであろうし,無抵抗ということによって敵が心を動かされるかもしれないと考えるのは,ずさんきわまる胸算用であろう。”と非武装,無抵抗を批判しているが,
48) 『日本の兵士と農民』(E.H.ノーマン 大窪愿二訳 岩波書店 1958年 72-82頁) ;『日本歴史15 近代[2]』(木戸田四郎共編 岩波講座 1962年 204-205頁)。
49) 『内村鑑三信仰著作全集21』(山本泰次郎編 教文館 1962年 122頁);『内村鑑三集』明治文学全集39(河上徹太郎編 筑摩書房 1967年 308頁);『現代日本思想大系5 内村鑑三』(亀井勝一郎 1964年 413頁)。
50) 『良心的徴兵拒否の思想』(阿部知二 岩波新書 1969年 94頁)。
51) 『臆病者と呼ばれても』(マーカス・セジウイック 金原端人,天川佳代子訳 2004年 34,136頁)。
52) U.S. Government Printing Office Conscientious Objection I BBC放送 Wednesday, 4 November 2009。
53) “当時聖書研究者という呼び名で知られていたエホバの証人の中には,世の事柄に関して明確な中立の立場を守っていない人たちがいました。”(「ものみの塔」誌1995年4月15号 18頁)。Thank God for the privilege of living in the United States! … Everyone who lives under the flag of the United States should be loyal.(合衆国で生活できる特権を神に感謝!合衆国の星条旗の元に暮らす人はだれであっても忠実であるべきです。拙訳)。(英文「ものみの塔」誌1917年5月15日号 6085頁)。Then we say, Let every man who can with a clear conscience to go to war, do so. (では,言います。参戦するのをためらわない良心がある人なら,そうしなさい。拙訳)。(同 6085頁)。The International Bible Students’ Association is not against the Liberty Loan. Many of its members have bought and hold Liberty Bonds.(国際聖書研究生協会[ものみの塔協会]は自由借款(戦争国債)に反対しません。成員の多くは自由公債を購入しています。
54) 『政治的なものの概念』(同  27頁)。
55) 『仏陀を背負いて街頭へ-妹尾義郎と新興仏教青年同盟-』(稲垣真美著 岩波新書 109頁)。
56) 「第二次世界大戦の戦死者」の数については、「第二次世界大戦の戦死者」の具体的な範囲が必ずしも明らかではないが、政府としては、昭和三十八年五月十四日の閣議決定(戦没者追悼式の実施に関する件)において、同年八月十五日に実施する全国戦没者追悼式における戦没者の範囲について、「支那事変以降の戦争による死没者(軍人・軍属及び準軍属のほか、外地において非命にたおれた者、内地における戦災死没者等をも含む者とする。)とする」と決定したところである。そして、政府としては、右の戦没者の数について、約三百十万人であるとしてきたところである。(内閣衆質一五二第一五号平成十三年八月二十八日受領答弁第一五号.第152回国会 2001年8月28日)。
57) 拙稿「戦時下灯台社の顛末」(「『死』を考える」講座 2013年9月);  『神戸と聖書』(「神戸と聖書」編集委員会 2001年 拙稿 211-212頁)。
58) 拙稿「目薬」誌 №23,24 (2001年 10-14頁)。1942年3月28日,第一公判で明石順三[1889-1965] (灯台社代表 戦前ものみの塔聖書冊子協会[エホバの証人]日本支部),妻明石静栄,崔 容源(景鸞)[Choi Young-won日本名:佐野要三 25歳], 玉 応連[Ok Ung-nyun 日本名:玉井良介(官憲の拷問で発狂,獄死23歳)]の5人は非転向を貫く。拙訳)。(英文「ものみの塔」誌1918年5月15日号 6257頁)。
59)『手塚英孝著作集〈第3巻〉』 (手塚英孝 新日本出版社 1983年 311-313頁)。
60)『新カトリック大事典Ⅱ』(新カトリック大事典編纂委員会 研究社 1998年 420頁)。
61) 同 Ⅰ(1996年 1065-1068頁);『カクレキリシタン』(宮崎賢太郎 長崎新聞社 2004年 21頁)。「1873年に禁教令が解かれて信仰の自由が認められた後もカトリックとは一線を画し,潜伏時代より伝承されてきた信仰形態組織下にあって維持し続けている」。
62)『友和』158号 (エルネスト・バルデューチ 1966年)。
63) 前田朗Blog 2013年7月23日付。
64) 『墨子』(和田武司訳 徳間書店 1973年 91頁)。墨子は「非攻主義」により,戦争が本質的に殺人行為であることを論証し,戦争こそが最大の不義であることを力説(同書 20頁)。
65) 『安藤昌益と自然営道』(渡辺大濤 勁草書房1970年 300頁)。
66)  同 149頁。
67) 『証言沖縄「集団自決」』(謝花直美 岩波新書 2008年 11-14頁)。
68) 『十戒の倫理と現代の世界』(笠井惠二 新教出版社 2002年 162頁)。
69) マハトマ・ガンディー[1869-1948] 「“目には目を”は全世界を盲目にしているのだ」。An eye for an eye will make us all blind.『ガンディー 魂の言葉』(浅井幹雄監修 太田出版 2011年 30頁)。
70) マルチン・ルーサー・キング[1929-1968] 『荊冠の神学』(栗林輝夫 新教出版社 1993 年 373 頁)。
71) 1922年大英帝国の総面積3330平方キロ,全世界の陸地面積の22.43%。Empire, The rise and demise of the British world order and the lessons for global power  Niall Ferguson  Basic Books 2004。
72)“Newsweek” 2011.9.14 Andrew Sullivan アンドルー・サリバン 英国人作家。“We have survived and endured as a civilization because we have recognized our errors and corrected them”。
73) Hebrew and English Lexicon of the Old Testament Francis Brown, S.R.Driver and C.A.Briggs Oxford University 1907 p.1022;『平和のコンセプト』(ジョン・マッコーリー 東方敬信訳 新教出版社 2008年 35頁)。
74) 『構造的暴力と平和』(ヨハン・ガルトゥング 高柳先男他訳 中央大学出版部 1991年 44頁)。
75) 『戦争責任』(家永三郎 岩波現代文庫 2002年 338-339頁)。
76) 『第二の罪―ドイツ人であることの重荷』(ラルフ ジョルダーノ 永井 清彦,中島俊哉,片岡哲史訳 白水社 1990年 頁)。
77) 「リスク化する国際社会と戦争責任 ―共生社会をめざして―」(村田充八 西部中会世と教会に関する委員会主催 2013年 32