聖書 バイブル

手の上に

 

神戸新聞文化センター(KCC)

 

  牧師の拙稿  未完

① 「聖書のいやし」

       神戸国際キリスト教会 牧師 岩村義雄  2010年02月28日

主題聖句: マタイ 17:15-20 言った。「主よ,息子を憐れんでください。
てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。
お弟子たちのところに連れて来ましたが,治すことができませんでした。」
イエスはお答えになった。「なんと信仰のない,よこしまな時代なのか。
いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで,あなたがた
に我慢しなければならないのか。その子をここに,わたしのところに連れ
て来なさい。」 そして,イエスがお叱りになると,悪霊は出て行き,そ
のとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て,
「なぜ,わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。
イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。

<序>
河野進[1904~1990]という方は賀川豊彦より岡山ハンセン病療養所
での慰問伝道をすすめられました。河野さんが書いた詩があります。
  「病まなければ ささげ得ない祈りがある 
  病まなければ 信じ得ない奇跡がある
  病まなければ 聞き得ない御言葉がある
  病まなければ 近づき得ない聖所がある
  病まなければ 仰ぎ得ない御顔がある
  おお 病まなければ 私は人間でさえもあり得ない」
 病気は格子なき牢獄のようです。自由を奪われ,入院している期間,拘束されます。入院したが最後,医師の診療,言われることに従わざるを得ません。
 患者の願いより,病院側の指示が優先します。また個室ではない場合,同室の方たちとのおつき合いなど,時には,身体的苦痛より,精神的苦痛の方が大きく感じる場合があります。現在の苦しみ,未来への不安,経済的な問題,家族の負担などいろいろと考えますとマイナス面でいっぱいになります。
 しかし,詩の中には,「病まなければ 仰ぎ得ない御顔がある」と歌われています。そうです。私たちの主は,病む者へは,限りなく優しいのです。
「彼は軽蔑され,人々に見捨てられ 多くの痛みを負い,病を知っている」
(Isa 53:3)でいらっしゃる主イエス・キリストは,隠れたる神ではなく,
「わたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(v.4)と,
書かれているように,私たちが病で伏せっている時,痛み,悲しみをになっ
ていてくださっているのです。大きな大病を患ったことがなく,忙しい牧師
を支える妻の働きをしている家内が2月8日から入院しましたことは,大きな
苦しみを抱え込むことになりました。しかし,妻が先月,皮膚癌だと宣告さ
れ,手術をしなければ命の保証はないという中に,入院生活をしていて,顔
を出すと,神様の御顔を仰ぎ見て平安がありましたから,どれほど慰められ,
励まされたか,感謝な日々でした。入院している家内を見て,病気の時は日
常の何でもない時にまして,聖書の御言葉が身に強く迫ります。私たちは,
今朝,身近で病んでいる人を心にとめ,主の御顔の光りを祈っていきたいと
思います。私たち教会にとりましても,恩人である三木晴雄兄弟が聖路加病
院で動脈瘤で入院なさっています。原田洋子姉妹も肺炎でご奉仕を休んでお
られます。そのことも覚えて最初に皆さんとご一緒にお祈りしたいと思いま
す。

(1) 聖書のいやし
 a. いやしとは
 1Co 12:28 神は,教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒,第二に預言者,第三に教師,次に奇跡を行う者,その次に病気をいやす賜物を持つ者,援助する者,管理する者,異言を語る者などです。
 Lu 9:1 イエスは十二人を呼び集め,あらゆる悪霊に打ち勝ち,病気をいやす力と権能をお授けになった。
 聖書には,イエス・キリストご自身がなさったいやしだけでなく,弟子たちも,病の人をいやす賜物が与えられていることが書かれています。ですから,私たちも「いやし」のパワーが発揮できないと,キリスト者として神様から用いられている器でないないんだと卑下したりする場合があるかもしれません。大きな聖会で車椅子で来られた方が帰り際には,自分の足で歩いて帰るとか,いやしの場面を目撃したりしますと,すごいっとうらやましく思ったりするものです。
 今回,家内の入院で思わせられたことは,日頃から健康に気遣い,食べるものなど,節制していて,もっとも癌には縁がないと思っていた妻が悪性
  の癌と診断された時,お祈りしました。恩師である神学校の先生も末期癌の苦痛で七転八倒なさって天に帰って行かれたことも強烈に焼き付いています。かつては人にはあまり証ししませんが,自分には,いやしの力を与えられていると自負していた時期がありました。ですから,自分自身も検査も受けることもなければ,体温を測ることや,血圧を測ることも無縁の生活でした。敬愛する三木晴雄兄が日頃,よく言われていますように,「点滴は天敵」であるなどと思い込んでいる健康体が与えられています。
 先週も教会のある姉妹から,病んでいるから祈ってくださいと頼まれれば,喜んでお祈りします。「だから,主にいやしていただくために,罪を告白し合い,互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは,大きな力があり,効果をもたらします」(Jam 5:16)。しかし,2001年以降,難民支援や,弱った葦に関心をもち,低身に歩み出す時,いやしの賜物より,もっと大切なものがあることを思わせられてきました。きっかけは,統合失調症の兄弟が教会を離れたことに原因があります。だれよりも,肉親の家族より深い絆がありましたし,信頼関係があったのですが,彼の味わっている精神的な病をいやす力がないことをいやというほど味わう試練を通らされたのです。いくらお祈りしても,病状はよくなるどころか,悪くなる一方でした。自分はキリストに追随していると言っているが,何の賜物もないではないかと,神から遣わされた僕だろうかと,自分を責める日々がすっと続きました。親しく交わり,彼が信仰の走路を地上で走り終える時には,自分が生かされているなら,最後まで世話をしようと覚悟していました。彼のお母さん姉妹もそう信じていましたし,願っていました。ところが,彼は,理由も言わずに,突然教会を去っていきました。その時,身体だけでなく,彼の心もいやせなかった現実をつきつけられ,牧師として,信仰の友人として,無力感に陥りました。「目薬」誌という定期刊行物を通して,異端と論争にあけくれていたことが,彼の精神を病んでいる苦しみを理解していなかったのです。
 それからイエス・キリストご自身のいやしについて聖書が述べることに,求道の旅が始まったように目を向けるようになりました。

 b. いやすことができない不信仰
 イエス様が,てんかんの男の子をもつ人に出会った主題聖句の場面を見てみたいと思います。
 Mt 17:15-20 言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが,治すことができませんでした。」 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない,よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで,あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに,わたしのところに連れて来なさい。」 そして,イエスがお叱りになると,悪霊は出て行き,そのとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て,「なぜ,わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。
 イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。イエス様の評判を聞いたてんかんで苦しむ子を持つ親がやってきます。イエス様がいない時でした。そこで弟子たちが子に手を置いたりして,いやそうとお祈りしたりするのですが,一向によくなりません。そこへイエス様が現われた場面です。
 そこで,父親は山から下りてこられたイエス様にすがりつくようにお願いします。平行記述であるマルコの福音書もご一緒に見てみましょう。
 Mr 9:21,22 イエスは父親に,「このようになったのは,いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして,もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら,わたしどもを憐れんでお助けください。」
  マタイの福音書 17章では書かれていない父親の言葉がございますね。「おできになるなら,わたしどもを憐れんでお助けください。」と。「あなたの弟子たちはこの子をいやせませんでした。もしできることならば,私たちを憐れんでください」。イエスはおっしゃいます。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」父親は叫びます。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」こうして子はいやされたのです。イエス様は弟子たちを,「信仰が薄いから」悪霊を追い出す,つまり奇跡や,いやしを行なうことができないと言っておられます。この場面は,ちょうど,愛するひとりの兄弟の精神的な病をいやすことができず,なすすべがなかった私自身に,イエス様が,「信仰が薄いから」と迫っておられたことをまざまざと思い出します。
 では,私を含めて,皆さんは病にかかっている人や,ご自分が病になった時にいやすことができないのは信仰が薄いからなのでしょうか。

 c. 病をいやせない弟子たち
 英語教室の教え子たちとハイキングに行った帰り,中学生の女の子が電車の中で,急にうずくまりました。ボーイスカウトの応急手当でなんどか遭遇したのと同じケースです。とっさに彼女の顔を他の生徒たちが見ないように,ハンカチで隠しました。聖書に書いてあるてんかんです。彼女は今
 でも,年賀状やピアノの発表会にはこまめに連絡をくれます。てんかん
[ギリシア語セレーニアゾー]は西暦一世紀当時,月に打たれると考えられていました。
 今日では,てんかんは,脳機能の障害によって起こるとされる病です。幼い時に高熱や事故が原因によってもたらされることがあります。ですから,聖書のてんかんとはもともと「月に打たれる」という意味です。決して「てんかん=悪霊」ではありません。悪霊はさまざまな病気を人間に与え,苦しめるのです。だからイエス様は人々を苦しめる悪霊をしかりつけたりなさって,人に影響を与えないように力をお用いになったのです。一方,弟子たちは,ルカの福音書 9章1節でご一緒にお読みしましたように,「悪霊に打ち勝ち,病気をいやす力」をもっていたにもかかわらずてんかんの子供をいやせなかったのです。聖書には英雄伝が書かれているのではありません。かつて私が愛するひとりの兄弟の病気をいやす力がなかった場面と同じだとお考えになってください。「わたしを強めてくださる方のお陰で,わたしにはすべてが可能です」(Phi 4:13)と告白しながら,何もできない無力感を弟子たちは何によって解消したでしょうか。
 キリストがいやしをなさった時のスピリットは弟子たちとどう違うのでしょうか。
   
(2) キリストのいやし
 a. イエス様のいやし
 主題聖句と同じ平行記述であるマルコの福音書もご一緒に開いてみましょう。
 Mr 9:21-28 イエスは父親に,「このようになったのは,いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして,もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら,わたしどもを憐れんでお助けください」。 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
 イエスは,群衆が走り寄って来るのを見ると,汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず,耳も聞こえさせない霊,わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると,霊は叫び声をあげ,ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので,多くの者が,「死んでしまった」と言った。しかし,イエスが手を取って起こされると,立ち上がった。イエスが家の中に入られると,弟子たちはひそかに,「なぜ,わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエス様は,「信じる者には何でもできる」とお応えになっています。そうしますと私たちが人々をいやすことができないのはどこかに問題があるということになりませんか。そこで,聖書の「いやし」について,原点に戻るように,聖書に立ち帰えり,考えてみることにしたいと思います。
  まずイエス様がいやしをなさった場面を考えてみましょう。
  聖書の中で,「いやす」というギリシア語には二通りがございます。イアオマイとセラペウオーです。多くのキリスト者がまちがって理解していることがございます。イエス様がなさったのはイアオマイだという錯覚です。実際に,マタイとマルコの二つの福音書だけで確かめてみますと,イアオマイは5回用いられています。一方,セラペウオーは21回も出てきます。
  イアオマイは肉体の病気の回復を意味しています。セラペウオーは「世話をする」「手当てする」という意味がほとんどです。つまり,イエス様がなさったのは,病の床にある人々に,仕える,看病することをなさったにすぎません。聖書翻訳において,セラペウオーを「癒やす」と訳することによって,まちがった解釈が起こりました。イエス様が自らイアオマイ,つまり肉体の病のいやしを申し出た箇所はございません。イエス様がセラペウオー,つまり「手当をする」ことによって,その結果,イアオマイ「癒やされる」ことになったことを知っておくことは大切でしょう。たとえば,私たちの周りで,セラピストとか,アロマ・セラピーという言葉はギリシア語から由来しています。
 一箇所,イエス様のいやしの場面を開いて確認してみましょう。百人隊長が自分の部下の中風についていやしもらうように懇願する場面です。
 Mt 8:7 そこでイエスは,「わたしが行って,いやしてあげよう」と言われ た。ここでも,イエス様は「いやしてあげよう」とセラペウオーを用いておられます。つまり看病してあげようということです。今回,家内が兵庫県立がんセンターに入院していた間,生涯においてかけがえのない名医である村田洋三先生や,高井利浩先生,平林研二先生にお会いした恵みもありました。何より,24時間体制でお世話してくださる看護士たちの優しい気遣い,言葉,ほほえみがどれほど末期ガンでのたうち回っている患者にとって救いになっているか,言葉では表現のしようがありません。かつて木村房義兄弟が大腸ガンで西神成人病センターでご入院なさった時,また恩師の鍋谷堯爾先生が入院なさった時,看護士さんが脈をはかったり,注射を打つ時,触れる暖かい手の感触にいたく喜んでおられたことがございました。エロスではなく,ぬくもりが回復を早めたことをおっしゃっていました。今回も妻の四人部屋の入口にもっとも近いベッドにしょっちゅう容体に聞きに,またに声をかけてくださる方たちの看病がなければとても2週間では,退院できなかったことでしょう。村田医師も家内の手術の時に,麻酔で意識がなくなるまで,暖かく手を握っていてくださったのです。したがって,イエス様は,百人隊長が願っていた肉体のいやし(イアオマイ)ではなく,看病(セラペウオー)をなさったにすぎません。
 Mt 8:8 ただ,ひと言おっしゃってください。そうすれば,わたしの僕はいやされます。
 百人隊長が言った「わたしの僕はいやされます」はイアオマイです。そこで,百人隊長のイエス様の「ことば」つまり「ロゴス」を慕う信仰によっ て,僕の中風はどうなったでしょうか。
  Mt 8:13 「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき,僕の病気はいやされた。
  イエス様の「手当て」セラペウオーを通して,最終的に,イアオマイ「いやし」が起こったのです。
 したがって,イエス様が福音を人々に分かつ宣教で大切な業とは,「いや
し」を行なうことではなく,弱った人々に「手当て」もしながら仕えていくお働きだったのです。もし神の僕が手を置けば,何人たりとも病をいやすならば,病院はいらないことになりますでしょう。

 b. 権能を与えられた弟子たちの落とし穴
 私が心の病気をもっていた兄弟をいやせなかったように,弟子たちはてんかんの子をいやせませんでした。なぜでしょうか。イアオマイの方にばかり気がいっていて,てんかんの子どもの心を気遣い,手当てをしていなかったのではないでしょうか。ですから,群衆から「病をいやせないではないか,あなたたちは本当に神から遣わされたのか」となじられる始末です。
 ちょうど,私がかつていやす賜物が自分にあると思い込んでいたのに,い
っこうに成果があがらなく,とどのつまり,病に苦しむ兄弟は教会から離れてしまった情けない結果に陥ったのです。恥ずかしいことですが,私は神から遣わされた者ならば,神の力によって,病人をたちどころにいやすことも,ある時にはできると考えていたのです。
 イエス様はマルコの福音書 9章23節で「信じる者には何でもできる」とおっしゃっているのですから。
 さて,弟子たちはてんかんの子をいやせなかった時に,何をしていましたか。
 Mr 9:14 彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。
 パリサイ人や律法学者たちは,弟子たちに挑んでいました。「お前たちが神から遣わされたと言うなら,もし神の力の裏付けがあるというなら,そ の証拠を見せてみろ。てんかんの子供をいやせなかったではないか」と揶 揄していました。それで弟子たちは自分たちが正真正銘の神の僕である証 拠や,裏付けについて必死に証明しようと論争していたのです。私もかつ てものみの塔のパリサイ人たちに真理について必死に論争していました。 印刷などで,心に病のある兄弟を手足のように手伝っていてもらっていた のです。弟子たちは,てんかんの子供の心を思いやり,看病する,つまり セラペウオーの気持ちなど忘れて,自分たちを神の座においていたことで しょう。ですからいやせない痛いところを律法学者からつかれると,理屈 でもって論じあっていたのです。

 c. イエス・キリストが求めたいやし
    身体を癒やす[イアオマイ]より大切なことを見失っていたのです。弱った葦,くすんだ亜麻布の灯心のように苦悩している人々に対するあわれみを 失っていたのです。ですから仕える[セラペウオー]のスピリットがもはやなくなってしまっていたのでしょう。「俺たちは神の僕だ,権能があるんだ」という思い上がりがあったのではないでしょうか。「打ち砕かれて,へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる」(Isa 57:15)ことを忘れてしまうほど,宣教旅行で忙しかったのでしょう。病や罪人などの大群衆が日々イエス様や弟子たちを取り囲み,ゆとりをも奪っていたにちがいありません。苦しむ子供を放置して,セラペウオーせずに,論争している弟子たちの姿を不信仰とイエス様は嘆かれました。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで,あなたがたに我慢しなければならないのか」(v.19)。

(3) いやしから救いへ
 a. 父親との問答
 Mr 9:23,24 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
 23節で,「できれば」と父はイエス様にお願いしています。これまで,息子が「幼い時」(v.21)から,高い診察費を払ったり,ありとあらゆる治療をしてきたが,どれも効き目がなく,途方に暮れていたのです。イエス様のうわさを聞いて,ひょっとしたらと最後の頼みとイエス様の一行のところまでやってきました。そして,イエス様と同じ様に神の力があると言われている弟子たちに合い,奇跡が起きるように期待していたのですが,やはりだめでした。でも弟子たちの先生ならなんとかできるかもしれないと一縷の望みをもって,イエス様にお願いするのです。私と私の息子の二人に神様からの憐れみが注がれるのでしょうかという願いがありながらも,長年,絶対に直るとか甘い言葉で散々騙されてきた父親は,半信半疑で思わず,もしできればと口を滑らしてしまったのでしょう。イエス様は「信じる者には何でもできる。」とおっしゃいます。
 さて,皆さんにお尋ねしたいことがあります。父親の言葉の違いです。22節と24節では異なっている部分がございます。どこだと思われますか。
  22節 「おできになるなら,わたしどもを憐れんでお助けください。」
  24節 「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
 22節では,「わたしどもを」[ギリシア語ヘーマース]助けてくれるようにと父親はイエス様にお願いしています。息子がてんかんという病気のために家族全体が困り果てて,にっちもさっちもいかなくない,もうこれ以上の忍耐はできませんという嘆願です。医療に救いを見いだせなかった中で,苦しむ子を前にして何しもしてやれない親としてのやるせなさが表われています。神様を信じてはいるが,心から神の救いが介入することをまだ受け入れてはいなかったのです。
 ですから,24節で,「信じます。信仰のないわたしをお助けください」,と告白します。そうです。今度は「わたしどもを」ではなく,「わたしを」[ギリシア語ムー] と変わっています。不信仰な「わたし」を悔い改め,「わたし」を神から救ってほしいとシフトしているのです。キリスト教は,「わたし」と「神」の関係です。神と出合わなければ,実存的な体験をしなければ,頭の中でいくら考えても救いにはいたりません。もはや,子供のてんかんのいやしが問題ではなく,父親の救いに場面は展開していっているのです。私たちはすべからず終末を迎えます。肉体は朽ちるのです。
 村田医師が,家内の悪い部分を切除するのは,そこがすべての身体の悪い部分もっていったと考えれば,悲しむより喜ぶべきだとおっしゃいました。
 私たちの身体もいつか朽ち果てます。聖書でいう死は,霊と魂が肉体が分離することではありません。神との断絶が死です。「体は殺しても,魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ,魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(Mt 10:28)で書かれていますように,体を殺しても,私たちの魂や霊を滅ぼすことはサタン,悪霊,いかなる権力者もできないのです。「魂を殺す」ということは,永遠に神様と分離すること,つまり本当の死を意味しています。「死」ではなく,永遠の命という救いこそ,あらゆる人間がもっている本質的な希望です。父親は「わたしを救ってください」と,永遠の命を所望することを口から発したのです。
 私たちキリスト者は聖路加病院の日野原重明兄弟や,野口英世兄弟,シュバイツアーのように卓越した医療技術をもっていません。神戸大学医学部 を創設したJ.C.ベリー宣教師のように西日本全体に医療を普及させる能力もありません。しかし,臨終間際の方に,いろんな宗教をもっている方の最後に,セラペウオーによりキリスト者としての使命をまっとうすることができるのではありませんか。

 b. あわれみのスピリットが大切である
 イエス様に父親が願い求めました。
 「わたしどもを憐れんでお助けください。」(v.22)
 弟子たちは,神様がてんかんの子供を憐れんでいるのに,気付かず,律法学者たちと論争していたために,イエス様に不信仰とたしなめられました。
    イエス・キリストが群衆を見た時,「また,群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て,打ちひしがれているのを見て,深く憐れまれた。」(Mt 9: 36)に書かれていますように,痛みつけられ,抑圧されている群衆に対し て「深く憐れまれた」のです。ギリシア語スプランクニゾマイは「内臓が沸騰する」ほど悲しまれたのです。どんなに神からの権能や,能力,賜物があっても,キリストのように,have a compassion with~「感情移入する」スピリットがなければ,人々はいやされません。マザー・テレサはいやしを求めませんでした。マザー・テレサがしたことを思い出してください。道で行き倒れて,死んでいく人たちが人間としての尊厳をもって死ねることが大切でした。ですから,何をしましたか。いやされるようにお祈りしましたか。そうではありません。テラペウオーをしたにすぎません。
 その人を抱きしめることです。イエス様が弟子たちにおっしゃっていることは何でしたか。今回,家内の入院を通して,皆さまの主にある強いお祈りが背後にあったことはしあわせでした。ガン病棟がパラダイスになりました。良き名医たちや,看護士たち,同室のがんと戦う友たちができたことなど,限りない恵みでした。

 c. 病まなければ 仰ぎ得ない御顔がある
 ターミナルケアーに携わったマザー・テレサの働きをだれよりも霊的に敏感に察知して,日本でもおにぎり献金運動を始めた方が,最初に申し上げました河野進牧師です。一個のおにぎりに相当する献金を集めてマザー・テレサに支援する働きです。河野牧師は1979年に「おにぎり運動」を始めてから,二度,マザーがいるカルカッタに支援金を届けに出かけています。
 主に,ハンセン氏療養所に捧げられたのです。
 もっていく義援金を捧げてくれたひとりの岡山のハンセン氏療養所の方について,詩が残されています。
  「ハンセン氏療養所で 
  手のない信徒がていねいに 
  おにぎり献金を下さいました 
  わたしははっとしました
  両手が完全なのに
  なにをささげたでしょう
  神さま この人たちに」
  
<結論> 
神様がどうなさるか委ねるしかできない約1ヶ月でした。2011年1月18日に,
兵庫県立がんセンターで村田洋三先生に診察していただき,恵みを感謝しました。皆さまにもお祈りしていただきました。健康であった家内も入院してはじめてガン末期の方たちに接し,そうした人たちのためにもお祈りすることを今まで以上に教えられました。マルコの福音書9章29節で「この種のものは,祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」とイエス様がおっしゃったように,自分の力,賜物に過信することなく,砕かれたスピリットで主の御顔をいつも仰ぎ見る日々を過ごしたいと思います。今朝,家内も共に礼拝で一緒に讃美できる恵みを神様に感謝したいと思います。アーメン。

② 「唱えれば救われるのか」

          神戸国際キリスト教会  牧師 岩村義雄    2010年08月29日

主題聖句: 第二テモテ 4:2 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても
励みなさい。とがめ,戒め,励ましなさい。忍耐強く,十分に教えるのです。

<序> 神も仏もないおっしゃる方に唯物論者がいます。幸徳秋水[1871-1911]
はイデオロギーでもって世の中を良くしようとしました。「基督抹殺論」を
書いた人で,「自分が死んだら元素に帰るのだから粉にしてまき散らしてく
れ」と言っていたほどでした。しかし,死ぬ直前に,ある親しい人に送った
手紙の中に「使徒パウロのような信仰者がきて私を叱ってくれたら,あるい
は私は天国を望んで死ぬかも知れない」と書いていました。私たちは「それ
で,わたしたちは一人一人,自分のことについて神に申し述べることになる
のです。」(Ro 14:12)と書かれていますように,ひとりひとり裁きの座で申
し開きをしなければなりません。地上で何をしても,念仏を唱えれば,即刻
天で神様と共に神のようになって生活できるのではありません。今朝は,必
ずやってくる死,その前にどう生きるかをご一緒に考えてみたいと思います。

(1) 念仏を唱えれば,救われるのか
 a. 法然の救済観
  法然[1133年4月7日-1212年1月25日]は,9歳の時,荘園主であった父親が
    夜襲で殺され,比叡山に出家します。やがて各地を転々としますが,心
  に満足を得られなかったのです。70代で,朝廷から浄土宗禁制の命令に
  より,流罪となります。
  法然が説いた教えのひとつに,末法の時代に,社会的秩序と倫理観の完
  全なる崩壊が訪れ,その混乱の中から,弥勒菩薩が天から降りてきて,
  再び救いをもたらすと言います。いわゆる「弥勒信仰」です。
  ちょうど,西暦1世紀に,オリーブ山で弟子たちがイエス・キリストに尋
  ねた場面と思いだたさせます。
  Mt 24:3 イエスがオリーブ山で座っておられると,弟子たちがやって来
   て,ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こ
   るのですか。また,あなたが来られて世の終わるときには,どんな徴
   があるのですか。」
  キリストは,終末には,どんな徴があるかと予め予告なさいました。
  Mt 24:7-12 民は民に,国は国に敵対して立ち上がり,方々に飢饉や地震
   が起こる。しかし,これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そ
   のとき,あなたがたは苦しみを受け,殺される。また,わたしの名の
   ために,あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき,多くの人が
   つまずき,互いに裏切り,憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ,
   多くの人を惑わす。不法がはびこるので,多くの人の愛が冷える。
  争い,飢饉,裏切り,憎み合い,不法も増し,愛が冷えると,イエス様
  は預言なさったわけです。12世紀の日本も,源平合戦で田畑は荒らされ,
  飢饉や病(Lu 21:11)で人々の生活はすさんでいました。そうした時に,
  救い主イエス・キリストが「大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って
  来るのを見る。」(Mt 24:30)と同じように,法然は末法に「弥勒」が到
  来することによって,抑圧から解放されることを宣べ伝えたのです。
 b. 法然の人間観
  たとひわれ仏を得たらんに,十方の衆生(しゅじょう),至心信楽(ししん
  しんきょう)して,わが国に生れんと欲(おも)ひて,乃至十念(ないしじ
  ゅうねん)せん,もし生れずは,正覚(しょうがく)を取らじと(『無量寿
  経』の第十八願)
  念仏を称えるばかりで助かるのだから,その外に何もいらないという教
  えです。本願として誓いの言葉を立てるように信者にすすめるのです。
  「念仏」の「念」とは,名前を唱えることです。念仏を唱えていると,
  「阿弥陀」のように成ることができるのです。阿弥陀とAmit?yusという
  サンスクリット語の音写からできた言葉です。サンスクリット語の原意
  は,「無量光,無量寿」「量ることのできないほどの寿命を持つ」とい
  う意味です。つまり,「阿弥陀」は無時間性を意味しています。言い換
  えれば,ヘブライ語のオーラム,「定めのない時」(Ps 90:2)と同じです。
  Ps 90:2 山々が生まれる前から 大地が,人の世が,生み出される前か
   ら 世々とこしえに,あなたは神
  1Ti 6:16 唯一の不死の存在,近寄り難い光の中に住まわれる方,だれ
   一人見たことがなく,見ることのできない方です。この神に誉れと永
   遠の支配がありますように,アーメン。
  「阿弥陀」仏の名前自体に無時間性があり,唱えていれば,法蔵が唱え
  ていた言葉が真実となり,今もわれわれに働きかけるものと説いたので
  す。(『選択本願念仏集』第2章 『昭新法全』 313-322頁)。法然の救
  済観は,「弥勒の本願を信ずる」ことに集約されるように思えます。
  法然は,「南無阿弥陀仏」を唱えれば,年齢や,性別,身分など関係な
  く,善行を積むことのむずかしい時代に生まれた人であっても,往生で
  きると教えたのです。
  「阿弥陀」仏の名前を呼んだら救われるという考えは,修行を積むので
  はなく,心に信じて救われるというパウロの説いた教えと似ています。
  Ro 10:9-13 口でイエスは主であると公に言い表し,心で神がイエスを
   死者の中から復活させられたと信じるなら,あなたは救われるからで
   す。実に,人は心で信じて義とされ,口で公に言い表して救われるの
   です。聖書にも,「主を信じる者は,だれも失望することがない」と
   書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく,すべての人に
   同じ主がおられ,御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みにな
   るからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
  口に阿弥陀仏の名前を唱えて,極楽へ行ける身になれると。
  やはり,宗教の種と言えばいいのでしょうか。神の像に創造された人間
  は,宗教性において似ている痕跡を見出すことができます。(Ge 1:26)
  あるクリスチャンたちは,ネストリウス派の景教の影響を受けたから,
  中国で浄土教が生まれたと言います。日本の法然,親鸞ももともとは仏
  教ではなく,キリスト教から生まれたと言う方たちもいます。しかし,
  学術的にはまことに幼稚な解釈と言えます。キリストが日本で死んで,
  その墓が東北地方にあると言ったり,源義経(1159年-1189年)がモンゴ
  ルのチンギス・カン(1155年以降1162年までの間-1227年)になったとい
  う説もあります。小谷部全一郎(おやべ 1868年-1941年)という牧師が
  広めた説です。またムーディ聖書学院に学んだ牧師酒井勝軍(かつとき
   1874年-1940年)も日ユ同祖論者,オカルティスト,「日本のピラミッド」
  発見者です。福音派のリバイバル運動に源流になった中田重治(1870年-
  1939年)牧師は「日本には,太古にユダヤ人が渡来し,彼らと原住民と
  の混血によって今日の日本人が生まれた。キリスト統治の千年王国のひ
  な型として日本は今日まで連綿と続いてきた。これは神の摂理である。
  したがって,日本人には,神の選民であるユダヤ人を支援し,ユダヤ人
  国家樹立を成し遂げるべき民族的使命が神から与えられている」と唱え
  ました。もちろん福音派の負の部分だけを見ていきますと,学術的な検
  証に耐えることはできません。しかし,私たち夫婦は福音派の熱心な宣
  教があったかからこそ,異端から回心することができた恵みがございま
  す。
  さて,法然の母親が秦氏であったという理由で,法然がキリスト教版仏
  教を始めたというのは,牧師の立場で言うのはどうかと思います。大切
  なのは,法然の教理と,プロテスタントの教理の相違は何かと比較して
  みたいのですが,少しだけ,日猶同祖論や,日本の仏教がもともとは景
  教だと論じる問題をとりあげておきたいと思います。
 c. ネストリウス派の景教と日本の宗教の関係
  ネストリウス(381年-436年)は,「イエスにおいて神性と人性とは混同し
  ておらず,共存している」と説きました。イエスの母マリアを「神の母」
  と呼ばずに「キリストの母」と呼んだことを理由に,431年のエフェソス
  会議で異端として断罪されることになりました。イランなどの難民支援
  では,ネストリウス派がシルクロードを経て,東に,中国方面に移動し
  た史跡が残っているのを発見することもあります。ネストリウス派の中
  国伝道に関する資料に「大秦景教流行中国碑」(だいしん)があります。
  景教碑によれば,ネストリウス派は635年に初めて中国に入り,翌年に
  大秦寺を建立したと記録が残っています。つまり,中国にキリスト教の
  影響が及んだのは636年以降のことです。ところが,秦氏は,「日本三代
  実録」によりますと,応神天皇14年,つまりに372年に来日しています。
  もし秦氏が景教徒,すなわちキリスト教徒に改宗したとするなばら,景
  教がはじめて中国に伝わった時期と,200年以上のずれがあります。不思
  議なことに秦氏の氏寺として知られる「広隆寺」(603年)もよく引き合い
  に出されます。広隆寺の国宝第一号として有名な「弥勒菩薩半迦思惟像」
  もあったりしますから,私もかつては景教=日本の古代宗教の似ている
  ことを見出したりしては,キリスト教を宣教する際の例話としてよく用
  いたことがありました。しかし,今朝の主題聖句にもありますように,
  「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても」と書かれています。
  福音に耳を傾けようとする人たちにともすると,「御言葉」に混ぜ物を
  入れて語ってしまい,つまらないことでつまずかせてしまうことだって
  あるのです。今後も,キリスト教が日本人の心に受け入れられていくた
  めには,同化や没入ではなく,正道を行かねばなりません。いつしか,
  キリスト教のもつダイナミックな宣教とまったく異質な宗教との区別も
  何もなくなってしまったなら,教会も,聖餐式も,キリストの再臨を待
  ち望まず,めいめいが自分の野望通りに,勝手に生きていけばいいこと
  になってしまわないでしょうか。
  日猶同祖論のおかしさの決定的なことのひとつに人種的な違いをあげる
  ことができます。現在世界にいる「ユダヤ人」のうち90%以上はアシュ
  ケナジー,つまり白人系ユダヤ人です。もともとイスラエルにいた本来
  のユダヤ人たちとはぜんぜん関係のない人たちです。おかしなことに,
  イスラエルに行って,少しでも生活してみればわかることですが,もと
  もとのユダヤ人は顔つきも白人ではありません。現実には,ミズラヒと
  言われる本来のユダヤ人はアラブ人として,イスラエル社会では差別さ
  れているのです。したがって,白人系ユダヤ人と,日本人のルーツが同
  じだと言う学説などまったく根拠のないものです。たとえば,「カゴメ
  紋はダビデの星」だといわれることがあります。六芒星(ろくぼうせい)
  が「ダビデの星」と呼ばれてユダヤのシンボルとお聞きになったことが
  ございませんか。私もイスラエルに旅行に行った時には,ダビデの星の
  ネックレスを家内に買ってあげたくなったものです。あいにくゆとりが
  なく,帰国して,10年経ってからプレゼントをした思い入れがあります。
  福音派の牧師会へ行きますと,牧会者の夫人が流行のようにしている
  光景を見て,がく然としたことがあります。六芒星はダビデ,ソロモン
  共に関係がないからです。ユダヤの文献で六芒星の図形にかんする言及
  が見られるのは1241年になってからです。図形がユダヤのエンブレムに
  採用されたのは三十年戦争末期の1648年になってからです。(英文『ダ
  ビデの星はどこから来るのか』イスラエル・シャハク 1999年 181頁)。
  私は,ものみの塔の源流がフリーメーソンにあることを論じる日本の福
  音派の聖書学者の書籍に出合った時に驚いたことがあります。そこで
  「目薬」誌でもシンボル学の視点から反論したことがあります。ですか
  ら,六芒星,菊の御紋,ハート,十字架のシンボルが寺社仏閣にあるか
  らというだけのこじつけの理由で,共通の信心だと言い切るようなお話
  しにキリスト者は軽々しくついて行ってはいけません。「すべてを吟味
  し」なければなりません。(1Th 5:21)。「吟味する」(Gk ドキマゾー)
  は,『口語訳』では「識別する」,『新改訳』では,「見分ける」と訳
  されています。オカルトのカバラ思想の影響を受けた「ダビデの星」の
  マーク,エンブレムにあこがれるのは,自由ですが,キリスト者ならば,
  弱い良心のクリスチャンをつまずかせるかどうかを判断することも必要
  でしょう。(1Co 8:12)。
  Ps 101:3 卑しいことを目の前に置かず 背く者の行いを憎み まつわり
   つくことを許さず
  へロデ王の紋章として「菊」文様があることで,皇室とイスラエルの
  密接な関係を証明しようとする方もいらっしゃいます。紀元前722年に
  アッシリアによって,北イスラエル王国が滅ぼされます。ディアスポラ,
  つまり,「失われた十支族」が古代日本に渡来し,先住の民を征服した
  皇室のルーツだという説の根拠としようとするのです。みなさん,そん
  なことを聞いても簡単に信じてはいけませんよ。「菊の御紋」が皇室の
  シンボルになったのは12世紀の鎌倉時代以降のことです。したがって,
  歴史的経緯や学術性を無視して,なにか無理やりにこじつけで見つけた
  類似性で,論じるのはオカルトと言ってよいでしょう。
  「神輿(みこし)」と「契約の箱」,「山伏が額につけている兜巾(とき
  ん」とユダヤ人が頭に結んでいるテフィリンと言われる聖句箱が似てい
  るというだけの理由で,日本の宗教は聖書と結びつきが深いなどと語る
  なら,ペテン師ということになります。聖書を普及させることで熱心な
  方の中にそうした自説をもっている方がおられますが,間違いに気づい
  ていただけるようにお祈りしましょう。
  Ac 20:30 また,あなたがた自身の中からも,邪説を唱えて弟子たちを従
   わせようとする者が現れます。
  「邪説」はギリシア語のディアステレフォーは分詞で,「曲がった」,
  「惑わす」という意味です。日本のキリスト教の宣教は壁にぶつかった
  ように高齢化と共に,若いキリスト者が少ないのがふつうになっていま
  す。しかし,人を増やすために,「曲がった」ことで人を集めようとす
  するのはやめなければなりません。
  2Ti 4:3-5 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき,
   人々は自分に都合の良いことを聞こうと,好き勝手に教師たちを寄せ
   集め, 真理から耳を背け,作り話の方にそれて行くようになります。
   しかしあなたは,どんな場合にも身を慎み,苦しみを耐え忍び,福音
   宣教者の仕事に励み,自分の務めを果たしなさい。

(2) 法然の救済観とプロテスタントの救済観の相違 
 a. 深心
  法然は放浪している43歳の時,中国の善導(613年-681年)の教えに感化
  を受けて,浄土宗を始めたのです。善導は『観経疏』(かんぎょうしょ)
  の中で,極楽へ行く心構えとして大事な三心を説いており,法然や,親
  鸞も引き継いでいます。
   「深心といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。 また二種あり。 一には,
   決定(けつじょう)して深く, 自身は現にこれ罪悪生死(しょうじ)の凡
  夫(ぼんぶ), 曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没(もっ)しつねに流
  転(るてん)して,出離(しゅつり)の縁あることなしと信ず。 二には決定
  (けつじょう)して深く, かの阿弥陀仏の, 四十八願は衆生を摂受(しょ
  うじゅ)したまふこと,疑なく慮(おもんぱか)りなくかの願力に乗じて
  さだめて往生を得と信ず」 (『昭新法全』 455頁)。
    まず自分が罪人であると自覚し,そんな罪人であっても「本願」のみを
  信じて念仏を唱えることにより,阿弥陀の力によって極楽へ往生できる
  という教理です。
  主イエス・キリストのとりなしを必要とするのではありません。また,
  聖化されていく生き方を求める必要がありません。聖書はすすめます。
  Eph 4:22-25 だから,以前のような生き方をして情欲に迷わされ,滅び
   に向かっている古い人を脱ぎ捨て,心の底から新たにされて,神にか
   たどって造られた新しい人を身に着け,真理に基づいた正しく清い生
   活を送るようにしなければなりません。だから,偽りを捨て,それぞ
   れ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは,互いに体の一部な
   のです。
 b. 罪についての相違
  プロテスタントでは,罪とは,神の命令に背いて自分が義とする行為を
  行なうことです。
  1Jo 3:4 罪を犯す者は皆,法にも背くのです。罪とは,法に背くことで
   す。
  「我と汝」の関係で個々のキリスト者が教皇とか,大司教による秘蹟に
  よらず,神様からの救いを個人の信仰によって,保証されるのです。
  Eph 1:14 この聖霊は,わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり,
   こうして,わたしたちは贖われて神のものとなり,神の栄光をたた
   えることになるのです。
  念仏三昧や難行苦行によらず,「あなたがたは,恵みにより,信仰に
  よって救われました。このことは,自らの力によるのではなく,神の
  賜物です。」(Eph 2:8)と書かれています。一方,法然は自分の努力で
  は仏になれないという理由は,「悉有仏性」(しつうぶっしょう)と言い
  まして,だれでも念仏さえ唱えれば,仏に成れるのですが,実際の自分
  はいくら念仏を唱えても,悟りを得ることができない自分がいることを
  見出すのです。成仏するにしても,「罪障」(ざいしょう)があるのです。
  何かすっきりしないのです。前世からの「宿業」(しゅくごう)によって
  仏になることは分かっていても,「障り」がつきまとうのです。そこで
  一心不乱に念仏を唱えることしか,罪を忘れることができないのです。
  聖書は違います。罪に対して,罰があり,罪が罰せられない限り,だれ
  も救われないのです。
  Jer 14:10 主はこの民についてこう言われる。「彼らはさまようことを
   好み,足を慎もうとしない。」主は彼らを喜ばれず,今や,その罪に
   御心を留め,咎を罰せられる。
  Am 3:14 わたしがイスラエルの罪を罰する日に ベテルの祭壇に罰を下
   す。祭壇の角は切られて地に落ちる。
  義であり,清い神様は罪を見過ごすことはおできになりません。罪と共
  に同居できない御方です。
  Ps 5:5 あなたは,決して/逆らう者を喜ぶ神ではありません。悪人は
   御もとに宿ることを許されず
  正直者がバカをみないように,悪人を放置したままにしておくことをな
  さらない裁き主です。では,どうしたら罪が赦されるのでしょうか。
  Heb 9:22 こうして,ほとんどすべてのものが,律法に従って血で清め
   られており,血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。
  ですから,父なる神は御子を地にお遣わしになりました。人類,私の過
  去,現在,未来犯すであろうすべての罪をあの十字架で身代わりとして
  罰してくださったのです。
  Ro 8:3 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを,神はしてくだ
   さったのです。つまり,罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿
   でこの世に送り,その肉において罪を罪として処断されたのです。
  贖いとして,御子イエス・キリストが人類の身代わりとして罰せられ,
  その結果,私たちは義人にして,罪人として再生させられたのです。
 c. 罪人として自覚した者はさいわいである
  罪の自覚がなければ,キリストに明け渡すこと生じません。イエス様が
  主であることを告白した者には,罪の赦しの確信がございます。法然が
  教えた「罪障」がいつまでもつきまとうことから解放されたのです。
  Eph 1:7 わたしたちはこの御子において,その血によって贖われ,罪を
   赦されました。これは,神の豊かな恵みによるものです。
   1Jo 2:12 子たちよ,わたしがあなたがたに書いているのは, イエスの
   名によって あなたがたの罪が赦されているからである。
  罪が赦され,神の子供となり,永遠の命を得た確信が世にあって,様々
  な労苦,しがらみ,試練にあっても勝利できる鍵となっているのです。
  たとえば,家計が会社の倒産などで危機に陥ったとしても,罪を犯さず
  にすむ知恵があります。法然は,罪の自覚について「三学非器」と言い
  まして,悟りに必要な智恵は身につけることは何人であろうともできな
  いという自覚が大切だと教えます。どんなに修行しても智恵を会得でき
  ないのが真の人間であるということになります。しかし,皆さん,キリ
  スト者はどうでしょうか。文脈を見てみましょう。
  1Jo 2:20 しかし,あなたがたは聖なる方から油を注がれているので,皆,
   真理を知っています。
  再生したキリスト者は罪赦され,義と認められた赤ちゃんの状態から,
  キリストに似る者に信仰生活を通して,聖化されつつあるのです。やが
  て大人のキリスト者として,いちいち牧師に電話で相談したりしなくて
  も神に喜ばれる決定できる智恵を聖書から判断できるように成長してい
  るのではありませんか。
  27節もご一緒に読んでみましょう。
  1Jo 2:27 しかし,いつもあなたがたの内には,御子から注がれた油があ
   りますから,だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万
   事について教えます。それは真実であって,偽りではありません。だ
   から,教えられたとおり,御子の内にとどまりなさい。

<結論> 私たちの教会にはこの明舞の地域で古参でもっとも熱心な共産党
の方が礼拝にお越しになるようになられました。早朝早く「赤旗」誌を配り,
地域の活動をなさって忙しいのに,メッセージを静かに聞いておられます。
「正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事,すべての行為には,
定められた時がある。」(Ec 3:17)に書かれていますように,念仏三昧の生活,
もしくは幸徳秋水のように信じるイデオロギーのどちらによって,生涯を閉
じるかを選ぶのではありません。AかBかではなく,真理に基づく信条を告白し
た道をご一緒に歩んでいきましょう。

③  「汝の敵を愛しなさい」

          神戸国際キリスト教会 牧師 岩村義雄    2010年07月04日

主題聖句: ルカ 6:27 「しかし,わたしの言葉を聞いているあなたがたに
言っておく。敵を愛し,あなたがたを憎む者に親切にしなさい。

<序> 昨日,14年ぶりに高松の牧師会に招かれて旧交を温めました。今
回は夫婦でなく,新幹線を利用して岡山経由で独りで行きました。先週も
岡山の集いに土曜日出かけましたので,ずっと身近に感じました。福田姉
妹も岡山からお越しいただいているのだと思いますと,駅の風景に対する
見方も変わります。香川県の牧師たちも半数以上の方が天に召されたり,
転勤などで変わっていました。あの時,お出合いしたことによって,その
後の牧師人生で少なからず自分にとりましては貴重な教えをいただいた方
たちがいます。自転車で会場に早く到着なさるやいなや,黙々と皆さんの
ざぶとんを敷いておられた小畑牧師など,かけがえのない出合いがあった
地です。私たちの教会で信仰告白をなさった竹内要二兄弟が名古屋で集っ
ているのも高松から移動された鈴木英昭牧師のところにご紹介させていた
だいたことがきっかけでした。竹内兄はトヨタのハイブリッド車の研究開
発の科学者であり,わたしたちの教会に取りましては恩人でもあります。
今でも礼拝説教のCDを注文してくださるので,神様に感謝しています。高
松へ行く道中,列車の中で,駅のプラットフォームで,売店でおにぎりを
買う時,いろいろな方たちとお会いします。自分を好いているかどうか,
関係なく,初対面の人に接する時,ぶっきらぼうににらみつけたりは普通
はしませんでしょう。欧米のマナーの影響でしょうか,日本人も田舎に行
っても,如才なくなってきたような気がします。しかし,初対面でもにこっ
と笑うところまでは日本ではまだまだいかないようです。ホームで電車を
待つとき,年配のおばちゃまに昨日,目であいさつをしますと,さかんに
さきほど道を陣取って話している人たちのマナーの悪さを話しかけてこら
れました。一方,ある紳士風の人は脇目もふらず,お仕事のことで思いが
いっぱいなのか,ゆとりもなく,近づきがたい雰囲気をもっておられます。
「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近
くにおられます。」(Phi 4:5)と書かれていますように「広い心」を「す
べての人に知られるようになさい」という心がけはなかなかできるもので
はありません。どうしても好きになれない人がいたりするものです。しか
し,私たちは,信仰から信仰に進んでいくわけですから,どうしたら勝利
できるか,先週に続いて,「愛」についてご一緒に聖書から見ていきまし
ょう。

(1) 隣人を愛しなさい Le 19:18。
 a. 受容できない隣人
  コントロールできないものが目の前にいたり,自分の生活圏内に現わ
    れたりしますと,普通は取る行動は,1.無視するか,2.受け入れ
    るか,3.忌避するかのいずれかではないでしょうか。たとえば,私
  は昆虫を見つけますと,夢中になるといいますか,釘付けになります。
  昨日も電車を待っている待合室に虫がいますと,ずっと行動をおっか
  けてしまうのです。どこへ飛んでいくのかなあ,人間にパシっとつぶ
  されないようにと思ったりしながら,いとおしく思うのです。しかし,
  隣の座っていた人は眉にしわを寄せて,なんでこんなところに虫が不
  愉快そうな顔をしておられます。教え子の女の子はまずと言っていい
  くらい虫がきらいです。男の子でも大嫌いという子がいます。絨毯の
  上に小さな蜘蛛がいるといやがるのです。ハエ取り蜘蛛がぴょんぴょ
  んと飛び跳ねているのを見るとなんかわくわくしてしまうのと大違い
  です。はなから虫が嫌いなのはどうしてでしょうか。「気持ち悪い」
  という嫌悪感があるのです。タマムシだって私にはかわいいのですが,
  虫が嫌い生徒は飛び上がるほどいやなのです。「足がたくさん生えて
  て気持ち悪い!」とか叫びます。さて,虫嫌いの生徒がおぞましいほ
  ど,「きもい!」と言ったところで,虫は「差別だ」と声を荒げません
  でしょう。つまり,対話できないのです。言っても通じないところ,
  無視した態度がますます虫嫌い生徒の気持ちを深めていく原因になっ
  ています。虫は自分たちのせいいっぱいの生活をしているだけなんで
  す。
  人間に対しても同じでしょう。言葉を通して相手を知れば,理解し合
  うことができます。ところが,言葉を通じないで,あいさつもできな
  ければ,やはり恐怖心がわきます。中東のイスラム圏の人たちに対し
  て敵意を抱くのも同じような理由でしょう。北朝鮮は嫌いだが,ワー
  ルドカップで活躍した鄭大世(チョン・テセ)選手の熱心なプレーを見
  て感動した人たちはインタビューの彼の言葉を聞いて,理解して,好
  きになるのです。ちょうど昨日,高松に招いていただいて,初対面の
  方たちもそうですが,私も緊張がございました。もちろん主にあるキ
  リスト者とお会いするわけですから,敵ではありませんので,すぐに
  打ち解けます。しかし,教会の近くのお墓でお会いしたお坊さんにどう
  接したら良いのでしょうか。
 b. 旧約聖書の愛
  Mr 12:29-30 イエスはお答えになった。「第一の掟は,これである。
   『イスラエルよ,聞け,わたしたちの神である主は,唯一の主であ
   る。心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くし,力を尽くして,あ
   なたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は,これである。『隣
   人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」
  Mt 22:37-39 イエスは言われた。「『心を尽くし,精神を尽くし,思
   いを尽くして,あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重
   要な第一の掟である。第二も,これと同じように重要である。『隣
   人を自分のように愛しなさい。』
  Lu 10:27 彼は答えた。「『心を尽くし,精神を尽くし,力を尽くし,
    思いを尽くして,あなたの神である主を愛しなさい,また,隣人を
   自分のように愛しなさい』とあります。」
  申命記 7章でも書かれていますように,「あなたの神である主を愛し
  なさい」,続いて,レビ記 19章18節にありますように,「隣人を自
  分のように愛しなさい」ということが神様の命じておられることだと
  私たちは講壇から何度も聞き,心に宿していることと思います。
  ヘブライ語のアハバーは感情というより,行為を伴う意志であるとご
  一緒に確認しました。旧約聖書に217回用いられる動詞アーヘーヴ,ま
  た,名詞のアハヴアー34回が,『七十人訳』つまりセプトゥアギンタ
  訳では,すべてアガペーの動詞形,名詞形になることも確かめて見ま
  した。ギリシア語では,アガペー,フィーリア,エロスの三種類であ
  り,聖書には男女の肉欲につながるエロスは一ヶ所もないことや,ス
  トルゲーという肉親間の愛もⅡテモテ 3省3節の聖書的根拠にはないこ
  とを見てみました。
  今朝は,自分たちを迫害する人たちや,好意をもって接してくれない
  人たちとどのように接したら良いかをご一緒に考えていきたいと思い
  ます。
  イエス様は聖書の中で,マルコの福音書,マタイの福音書,ルカの福
  音書の中で,律法は二つに集約されるとおっしゃいました。「心を尽
  くし,精神を尽くし,思いを尽くして,あなたの神である主を愛しな
  さい。」と,「隣人を愛しなさい」です。では,イエス様がおっしゃ
  る「隣人を愛しなさい」とはどういう意味でしょうか。
 c. イエス・キリストは隣人愛を強調なさらなかった
  ヘブライ語の「愛する」は,アーヘーヴだけでなく,ラハムなどがご
  ざいます。ラハムは旧約聖書に41回出ています。主に,神が被造物を
  愛する場合です。人間が主語になりますと,神が人に憐れまれたよう
  に,同胞を憐れむ場合に用います。ラハムは「ルハマ」という表記で
  旧約聖書に出てきます。(Ho 1:6,8, 2:3,25)。
  Isa 49:13 天よ,喜び歌え,地よ,喜び躍れ。山々よ,歓声をあげよ。
   主は御自分の民を慰め その貧しい人々を憐れんでくださった。
    Ex 33:19 主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの
   善い賜物を通らせ,あなたの前に主という名を宣言する。わたしは
   恵もうとする者を恵み,憐れもうとする者を憐れむ。」
  1Ki 8:50 あなたの民があなたに対して犯した罪,あなたに対する反
   逆の罪のすべてを赦し,彼らを捕らえた者たちの前で,彼らに憐れ
   みを施し,その人々が彼らを憐れむようにしてください。
  ラハム[愛する]は,同胞を「憐れむ」のに用いられます。
  Le 19:10 ぶどうも,摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実
   を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残し
   ておかねばならない。わたしはあなたたちの神,主である。
  「貧しい者」「寄留者」のために,収穫する時,落ち穂を全部取り込
  んでしまってはいけないと律法は述べます。「寄留者」[Heb ゲール]     は,寄留外国人であります。かつてヘブロンのアブラハムは故郷は
  ウルでしたから,ゲールになります。(Ge 15:13)。ゲルショムも同じ
  ように寄留外国人ですが,安息日など,「この規定は,その土地に生
  まれた者にも,あなたたちの間に寄留している寄留者[ゲール]にも,
    同じように適用される。」と在留異国人も同胞扱いになります。  
  イエス様が地上におられた西暦1世紀当時,「隣人」とはイスラエル
  の共同社会ヤーハッドの同胞のことでした。山上の説教でそれまで
  ユダヤ人が考えていた隣人愛と異なる視点で初めて語られたのです。
  Mt 5:43,44 「あなたがたも聞いているとおり,『隣人を愛し,敵を
   憎め』と命じられている。しかし,わたしは言っておく。敵を愛し,
   自分を迫害する者のために祈りなさい。
  隣人を愛しなさいと決して強調なさらなかったのです。むしろ「敵を
  愛しなさい」とおっしゃったのです。つまり,隣人愛の対象を仲間だ
  けに限る態度を根底からひっくり返してしまわれたのです。
  なぜイエス様は,「敵を愛しなさい」と言われたのでしょうか。ユダ
  ヤ人たちは,モーセの律法,レビ記 19章に従い,コミュニティのメ
  ンバーだけを大切にしていた排他性を明らかになさったのです。神の
  選ばれた民として,特別な所有物であることに慢心して,神様がお創
  りになったすべての人々に対しても,偏り見ることをなさいません。
   2Ch 19:7 今,主への恐れがあなたたちにあるように。注意深く裁き
   なさい。わたしたちの神,主のもとには不正も偏見も収賄もない。」
  偏見[Heb マソオ]をもたれない神様が自分たちが宗教エリートになっ
  ているユダヤ人に対して,「敵を愛しなさい」と説き勧めたのです。
  イスラエルの民が考えていた「隣人」は,同胞および改宗者に限られ
  ていたのです。
  
(2) 汝の敵を愛しなさい
 a. 隣人愛=兄弟
  Jas 2:8 もしあなたがたが,聖書に従って,「隣人を自分のように愛
   しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら,それは結構
   なことです。
    最初のエルサレムの教会を牧会したペテロに続いて,イエス様の異父
  兄弟であるヤコブは,「隣人を愛する」律法について,「最も尊い」 
  [Gk 王の]と言っています。では,牧会するヤコブにとって,「隣人」
  とはだれを意味していましたか。文脈の1節から目を落として見ます
  と,礼拝にやって来る「貧しい人」に差別や偏見を抱いてはならない
  と述べています。つまり,「隣人」とは霊的な事柄に関心のある人た
  ち,とりわけ教会に出入りする人になるのではありませんか。14節も,
  「わたしの兄弟たち」と呼びかけいる通りです。
  Jas 4:11 兄弟たち,悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を
   言ったり,自分の兄弟を裁いたりする者は,律法の悪口を言い,律
   法を裁くことになります。もし律法を裁くなら,律法の実践者では
   なくて,裁き手です。
  ヤコブが,「隣人」と言っている場面は,教会の主にある同じ兄弟姉
  妹と言うことになりませんか。「なぜなら,互いに愛し合うこと,こ
  れがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。」(1Jo 3:11)
  と書かれているように,同じコミュニティにある仲間を隣人として,
  愛し合うわけです。
  ユダヤ人たちにとりまして,「隣人」という言葉はどうでしたか。
  Le 19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。
   自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
  イスラエルの民は,「隣人を愛しなさい」という戒めの「隣人」と言
  う場合,同じ共同体,コミュニティになる兄弟を指しています。落ち
  穂拾いの絵に書かれているように,古代イスラエル社会においてもっ
  とも弱いとされていた人々である孤児,寡婦,寄留者に対して,愛を
  実践していくように啓示されたのです。
  Le 19:9-16 穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはなら
   ない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも,摘み尽
   くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。
   これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わた
   しはあなたたちの神,主である。あなたたちは盗んではならない。
   うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を
   用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚し
   てはならない。わたしは主である。あなたは隣人を虐げてはならな
   い。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ば
   してはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり,目の見えぬ者の
   前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたし
   は主である。あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは
   弱い者を偏ってかばったり,力ある者におもねってはならない。同
   胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷をしたり,隣人の生命にかか
   わる偽証をしてはならない。わたしは主である。心の中で兄弟を憎
   んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負
   うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはな
   らない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主で
   ある。
  「隣人」に,貧しい人,寄留者,虐げられやすい人,奪い取られやす
  い人が含まれています。異邦人たちも隣人に入っていますが,あくま
  でも,イスラエルの共同社会に加わっている人々になります。
 b. パウロの強調する「愛」
  パウロは「隣人を愛しなさい」と語ります。
  Ga 5:13-15 兄弟たち,あなたがたは、自由を得るために召し出され
   たのです。ただ,この自由を,肉に罪を犯させる機会とせずに,愛
   によって互いに仕えなさい。律法全体は,「隣人を自分のように愛
   しなさい」という一句によって全うされるからです。だが,互いに
   かみ合い,共食いしているのなら,互いに滅ぼされないように注意
   しなさい。
  パウロによりますと,旧約聖書でもっとも大切な律法は何だというこ
  とになりますか。イエス様がマルコの福音書 12章,マタイの福音書
  22章,ルカの福音書 10章で最も大切な律法とは,「『心を尽くし,
  精神を尽くし,思いを尽くして,あなたの神である主を愛しなさい。』
  これが最も重要な第一の掟である。第二も,これと同じように重要で
  ある。『隣人を自分のように愛しなさい。』の二つの掟になるとおっ
  しゃいました。一方,パウロは異なります。“律法全体は,「隣人を
  自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。”
  『心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くして,あなたの神である主
  を愛しなさい。』とは言いませんでした。よく教会では,たとえを用
  いて,「十字架」は縦のラインと,横のラインについて求道者に語り
  かけます。縦の神と自分の関係より,教会の兄弟姉妹との関係だけを
  追い求めていると,信仰生活のバランスが崩れますよ。十字架も縦が
  長いように,個人的に祈りや,聖書の通読を通して,神様との対話の
  方を重要視するキリスト者になりましょうと,言ったりします。
  では,パウロはなぜ“律法全体は,「隣人を自分のように愛しなさい」
  という一句によって全うされるからです。”と語ったのでしょうか。
  「全うされる」[Gk プレーロー」の完了形の受身]です。プレーロー
  は「成就する」「達成する」「満たす」という意味です。つまり,
  「隣人を自分のように愛しなさい」で,旧約聖書のすべての戒めは
  「成就される」「達成される」「満たされる」と言い切っているので
  す。ともすると,最初は純粋な動機で始まった修道会や,教団,教派
  も年月を経てきますと,「神を愛しなさい」というスローガンの下に,
  弱者に憐れみをもたず,教勢を拡大することだけに突っ走っていくよ
  うになります。そして身近に,地域に倒れている人たちがいても,無
  関心になります。親切なサマリア人のスピリットがなくなってしまう
  のです。
  Ro 13:8-10 互いに愛し合うことのほかは,だれに対しても借りがあ
   ってはなりません。人を愛する者は,律法を全うしているのです。
   「姦淫するな,殺すな,盗むな,むさぼるな」,そのほかどんな掟が
   あっても,「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約さ
   れます。
  パウロは,“「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約さ
  れます。 ”とここでも,「『心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽く
  して,あなたの神である主を愛しなさい。』については一切触れてい
  ません。ガラテヤ人への手紙と同じように,“人を愛する者は、律法
  を全うしているのです。”と語ります。「全うしているのです」とは
  プレーローです。つまり,パウロは繰り返し,「隣人を愛しなさい」
  と強調しています。イエス様がおっしゃった「『心を尽くし,精神を
  尽くし,思いを尽くして,あなたの神である主を愛しなさい。』はど
  うなってしまったのでしょうか。パウロはイエス様の言葉を忘れてし
  まったのでしょうか。ないがしろにしてしまったのでしょうか。
  パウロは文脈で,隣人の対象を敵にまで広げています。
  Ro 12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福
   を祈るのであって,呪ってはなりません。
  「迫害する者」[Gk ディオーコー]である敵のために祈ることを勧め
  ています。同胞だけの隣人愛から,イエス様がおっしゃった「敵を愛
  する」ようにというキリストの律法を全うすることを徹底しているの
  です。
  Ro 12:17-21 だれに対しても悪に悪を返さず,すべての人の前で善を
   行うように心がけなさい。できれば,せめてあなたがたは,すべて
   の人と平和に暮らしなさい。愛する人たち,自分で復讐せず,神の
   怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること,わたしが報復す
   る』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えてい
   たら食べさせ,渇いていたら飲ませよ。そうすれば,燃える炭火を
   彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく,善をもって悪に
   勝ちなさい。
  「あなたの敵が飢えていたら食べさせ,渇いていたら飲ませよ。」と
  キリストの言葉を「敵を愛する」実践を説くわけです。興味深いこと
  にパウロが書いたと伝承で言われている14通の書簡の中で,「『心を
  尽くし,精神を尽くし,  思いを尽くして,あなたの神である主を
  愛しなさい。』と一度も語っていないのです。一貫して,イエス様の
  教えに従い,敵をもオヘーヴするほど「隣人を愛しなさい」と流し出
  しています。
 c. イエス・キリストの説いた「愛」
  Mt 5:43-46 「あなたがたも聞いているとおり,『隣人を愛し,敵を
   憎め』と命じられている。しかし,わたしは言っておく。敵を愛し,
   自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子と
   なるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ,正しい者に
   も正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛し
   てくれる人を愛したところで,あなたがたにどんな報いがあろうか。
  徴税人でも,同じことをしているではないか。
  イエス様は,「敵を愛し,自分を迫害する者のために祈りなさい」と
  おっしゃいました。「自分を愛してくれる人を愛したところで,あな
  たがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも,同じことをしているで
  はないか。」と同胞や親しい共同体,組織の仲間たちだけに愛を表す
  枠組みを超えて,愛敵を強調なさったのです。
    意地の悪い教師ですから,生徒が座る机にいつもタイの大きなゾウム
  シのペーパーウエイトを置いています。最初はみんないやがるのです
  が,いつしか慣れてきますと,「これ,あげようか」というと,ほし
  いと言い出すのです。
  自分が愛せない人,自分たちに悪口雑言を述べる人たちにも鼻から
  嫌うのではなく,愛していくように変えられますように。
  Jas 3:17 上から出た知恵は,何よりもまず,真で,更に,温和で,
   優しく,従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見は
   なく,偽善的でもありません。
  「温和」(Gk エピエイケース)は新約聖書に5回出ています。電車など
  でお出合いする初対面の方たちであっても,皆さんもそうでしょうが
  「広い心」で見るゆとりを培うことができれば,地に平和が満ちてく
  るでしょう。

<結論> 自分に好意をもつ人を愛することより,むしろあしざまに言う
人に対しても,アガペーを示すことがキリスト教の心髄でございます。
敵を愛するには,感情ではとても成し遂げることはできません。聖霊の
満たしがなければ,過去のいきさつを忘れて,赦し,隣人を愛すること
を全うすることはできません。「我キリストと偕に十字架につけられた
り。最早われ生くるにあらず,キリスト我が内に在りて生くるなり。」
(Ga 2:20)。