画像 炊き出し
家,住民票,保障など一切ない「路上で生活をしている人」(英語 Bag people)は世界中,どこにでもいます。2014年,宮城県石巻市渡波で,第36次東北ボランティアの学生たちは田口政夫(72歳)さんと出会いました。田口さんは東日本大震災の当時は仙台駅をねぐらにしていました。雪かきをボランティアした班もいました。それほど寒い時に出会いました。京都大学の学生たちはもっていたカイロを喜んで差し出します。学生たちの中から,神戸にも路上生活者がいるのかどうかと質問がありました。1995年の阪神・淡路大震災以降,東遊園地(神戸市役所隣)で生活していると言うと,機構で炊き出しをしようということになりました。2014年4月以降,休まずに継続しています54)。居住する権利も脅かされています。ホームレスです。“ホームレスとは家がないというだけではありません。見捨てられ,臨まれず,愛されず,面倒をみてもらえない”,とマザー・テレサは来日の際,語りました55)。○○レスというのは,○○がないという意味です。「路上で生活をしている人」は,家族,身寄り,親戚もないファミリーレスでもあります。つまり人と人の関係が切断されて,孤独なのです。三つ目に希望がないホープレスです。路上生活者はホームレス,ファミリーレス,ホープレスの三重苦と筆者は定義づけしています。機構も週一回だけの炊き出しです。定期的に携わる楠元留美子さん,村上裕隆君たちは,「路上で生活をしている人」から感謝のねぎらいのことば「ありがとう」を言われなかったからと一喜一憂しません。なぜなら21食(一週間一日3食)の内,一食だけをお持ちしているにすぎないからです。「おいしい」と言ってもらいたいの気持ちが少しでもあるなら偽善です。ボランティア道に仕える者はたった一食を提供しているのに思い上がってはなりません。公園で共食して,苦しみの分かち合いをします。野宿者は生活保護を受けるように行政からすすめられます。そして月12万円の生活費が支給されます。ただしハローワークなどに出かけて,仕事につくことが条件です。ところが常雇いの仕事などありません。せいぜい長くて一週間の仕事がやっと見つかるくらいです。「官」から,「ちゃんと仕事をするという条件で生活費を支給しているんだ」,と厳しく言われるうちに,口うるさい行政から生活保護などいらないと思うようになります。日雇い労働者(カン拾い,廃品の識別,開店割引商品の並びなど)として,「路上で生活をしている人」にならざるを得ないのです。阪神・淡路大震災以降,神戸でも少なくとも20-30人の路上生活者がおられます。ところが美観が損なわれることを理由に,行政は文句,脅し,いやがらせで路上生活者に迫ります。機構も神戸市役所に何度も陳情に行ったため,いやがられました56)。
1)『三つの石で地球がわかる』(藤岡換太郎 講談社 2017年 93-94頁)。
2)『石巻日日新聞』(2017年6月2日付),『牡鹿新聞』(2017年5月26日付)。
3)『恩恵の光と自然の光』(春名純人 聖恵授産所出版部 2003年 79頁)。
4)茂木健一郎はで“自分の脳の中の神経細胞の活動を見渡す「小さな神の視点」はもっている。私たちの意識は,脳の中の神経細胞の活動に対する「小さな神の観点」として成立している“,と神は超越論的存在ではなく,人間の脳の中に,神が棲んでいると言う『脳の中の小さな神々』(柏書房 2004年 259頁),『なぜ,脳は神を創ったのか?』(苫米地英人 フォレスト出版 2010年 35頁)。
5)『ゲーデルの哲学』不完全性定理と神の存在論(高橋昌一郎 講談社現代新書 1999年 214頁)。
6) Time to Stand Up by Richard Dawkins, “Religion’s Misguided Missiles,” appearing in The Guardian on September 15, 2001『神は妄想である―宗教との決別』(リチャード・ドーキンス 垂水雄二訳 早川書房 2007年)の著者,生物学者のドーキンス[19411-]は「私のアブラハムの宗教に対する敬意は,9月11日の煙と息を詰まらせるような砂埃の中で吹き飛んだ」My respect for the Abrahamic religions went up in the smoke and choking dust of September 11th. The last vestige of respect for the taboo disappeared as I watched the “Day of Prayer” in Washington Cathedral, where people of mutually incompatible faiths united in homage to the very force that caused the problem in the first place: religion. It is time for people of intellect, as opposed to people of faith, to stand up and say “Enough!” Let our tribute to the dead be a new resolve: to respect people for what they individually think, rather than respect groups for what they were collectively brought up to believe.
7)『新約聖書ギリシア語精解』(W.バークレー 滝沢陽一訳 日本基督教団出版局 1970年)。否定を表す接頭辞「ア」がついて,「アストルゲー」。「無知,不誠実,無情,無慈悲です」(ローマ 1:31)の「無情」;“Enhanced Strong’s Lexicon”James Strong Woodside Bible Fellowship 1995。
8)『家族喰い―尼崎連続変死事件の真相』(小野一光 太田出版 2013年 13頁)。
9)『暗い時代の人間性について』(ハンナ・アーレント 仲正昌樹訳 情況出版 2002年 22頁)。
10)”ホンネスト”(ゼクシィ編集部実施調査 2015年8月)。
11)『沈黙の世界』(ピカート 佐野利勝訳 みすず書房 1976年 108頁)。
12)『西日本新聞』(2017年4月16日付)。
13) 『寄付白書2013』(特定非営利活動法人「日本ファンドレイジング協会」政府[内閣府:税制調査会])。2012年の個人寄附総額は6,931億円。
14) “Systematic Theology”Vol.1 (Tillich University Chicago Press 1955a p.379)。ティリッヒは彼の思索活動において,信仰義認論の拡張を要請し,罪人のみならず懐疑する者も義とされるという再解釈へ導いた。これが「懐疑者の義認(Rechtfertigung des Zweiflers)」と呼ばれる思想である。信仰は「否」の不安にもかかわらず「然り」と言う。神学者パウル・ティリッヒ[1886-1965]は,「信仰は懐疑の「否」と懐疑の不安を除去しない」と言う。人間が持ち合わせている本質的な疑い,「こんなに悪が許されているのに,神はいるのか」などの「疑い」についてティリッヒは「懐疑者の義認」と考えました。「疑う」者も罪人と同じように義とされる(Rechtfertigung des Zweiflers)と解釈したのです。良心に基づく懐疑は赦され,悪意に基づく懐疑は赦されないともティリッヒは述べました。
15) 第1次東北ボランティア報告書 神戸国際支縁機構 http://kisokobe.sub.jp/event/22/。
16)『朝日新聞』 (2012年3月17日付 東京大地震研究所の都司嘉宣准教授が計測)。亀山紘「東日本大震災における死」(「『死』を考える」講座 神戸新聞会館 2012年4月23日)。
17)『神戸新聞』夕刊(2016年11月20日付)。
18)『石巻かほく』(2017年3月8日付)。
19) 『人は皆「自分だけは死なない」と思っている ――防災オンチの日本人』(山村武彦 宝島社 2005年 75頁)。
20) 〃 (37頁)。
21)『朝日新聞』 天声人語(2017年5月29日付)。
22) 拙稿『目薬』 №24 2001年 7頁参照。
23)『交わり』No.589 (水垣渉 キリスト教と自然観―〈自然〉を聖書的伝統から考え直す試み― 2015年 3-4頁)。
24) 拙論「キリスト教とボランティア道」―水平の<運動>から,垂直の<活動>に―(第26回宗教者災害支援連絡会 東京大学本郷キャンパス 2016年)。
25) 拙稿『支縁』No.10(4頁 神戸国際支縁機構発行 2015年2月),『NHKスペッシャル』防潮堤400㌔ 2015年5月30日放映。
26) 『キリシタン南蛮文学入門』(海老沢有道 教文館 1991年 158頁)。
27) ヘブライ語!yBビィーン「識別する」 have discernment insight understanding.
28)『機械と神』(ホワイト 青木靖三訳 みすず書房 1972年 88頁)。
29) 拙稿「ただ衣食あらば足れり」『中外日報』(2013年5月21日付)。30)『二十世紀神学の形成者たち』(笠井恵二 新教出版社 1993年 23頁)。
31)『キリスト者の自由・聖書への序言』(マルティン・ルター 石原謙訳 岩波文庫 1949年 52頁)。
32)『SOWER』(岩井健作“弱者に対する聖書の視点”日本聖書協会 2009年 8-9頁)。
33)『宗教とは何か』(田川建三 大和書房 1988年 315頁)。
34)『ルカ福音書における貧者と富者』(嶺重淑 神学研究 関西学院大学神学研究会 2003年 35-36頁)。
35) 拙稿「第3次バヌアツ報告 2017年3月」http://kisokobe.sub.jp/international/9878/
36)「学生生活実態調査の結果報告書」(東京大学 第62回 2012年調査 2011年12月発行)。
37)「国民生活基礎調査の概況」(厚生労働省 2016年7月12日 平成27年版(2015年版)の世帯平均所得)。
38)「賃金構造基本統計調査」(厚生労働省 2017年2月22日公表)。
39)「『ボランテイア・福祉・宗教』で対話集会」岩村義雄×釈徹宗×木原活信『キリスト新聞』社主催 賀川記念館 2016年10月1日。
40)『朝日新聞』(2015年11月8日付)。
41)『沖縄タイムス』(2017年6月1日,2016年1月30日付)。
42) 拙稿 「第1次イタリア・ボランティア報告」(神戸国際支縁機構 2017年6月)。ウィキペディア イタリア中部地震2016年8月https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%B8%AD%E9%83%A8%E5%9C%B0%E9%9C%87_(2016%E5%B9%B48%E6%9C%88) 43) 月刊『FACTA』(纐纈一起,大木聖子 2013年2月号 LIFE)。
44)『日本経済新聞』(2011年5月8日付)の誤報。
45) Finding meaning in the changing face of matter Lucas Whitefield Hixson DAILY KOS 2011年12月18日付。
46)『七三一部隊――生物兵器犯罪の真実』(常石敬一 講談社現代新書 1995年 92-133頁)。
47)『日本カトリック醫師會々誌』(2012年 11月 No.51 113-114頁)。
48)『祈りとして文芸』(大田正紀 西部中会文書委員会 2006年 47頁)。
49)拙稿 「第1次第1次ベトナム・水害ボランティア報告」(神戸国際支縁機構 2016年11月)。
50) 拙稿「アウグスティヌスの生涯と信仰」(KBHセミナー 2005年8月2日)。
51) Novum Testamentum in Vetere latet, Vetus in Novo patet「ノーブン・テスタメントゥム・イン・ヴェテレ(old)・ラテト(hidden 隠されている)・ヴェートゥス(old)・イン・ノヴォ・パテト(come to light 明らかにされる) 」と述べました。Quaestiones in Heptateuchum 2, 73)。
52)「神の子」(法医学人類学者リチャード・ニーブ BBCドキュメンタリー 2001年)。
53) 「小さくされた人々のための福音」講座(神戸国際支縁機構 2004年11月から 勤労会館4階)。
54)『苦縁』(北村敏泰 徳間書店 2013年 187頁)。
55) 拙論「福音とは何か」(礼拝説教 神戸国際キリスト教会 2014年9月21日)。
56)「社会的弱者と『縁』を結ぶ」 『中外日報』(2014年7月4日付),「炊き出し」(楠元留美子 『支縁』No.10(1頁 神戸国際支縁機構 2015年2月)。「炊き出し」神戸国際支縁機構のホームページ参照。
57)『愛―マザー・テレサ 日本人へのメッセージ』(マザー・テレサ 女子パウロ会 2003年 51頁)。
58) 拙稿「神戸市カン条例について」『中外日報』(2014年7月4日付。ラジオ関西 2014年8月1日。
59)拙稿「共苦」(『朝祷』2014年10月1日付)。
「苦しみ」(パセィマタ pa,qhmaパセーマの複数形〈受動的に経験する事柄,特に苦しい経験,つらい経験,苦難〉の意。文脈の17節のスムパスコーsumpa,scw <su,n「共に」+ pa,scw 「苦しみを受ける,苦難を経験する」。pa,qhmaパセーマとpa,qojパトスは類義語。
60)『生態学的破局とキリスト教』(ゲルハルト・リートケ 安田治夫訳 新教出版社 1989年 217頁)。
61)『ヨブ記解釈の諸問題』(勝村弘也 基督教学研究第26号 2006年 4,5頁)。
62)『宗教と暴力,そしてディーセンシィー』(新免貢 宮城学院女子大学研究論文集 2016年 15頁)。
63) 同 (16頁)。
64) バビロン捕囚頃よりユダヤ人 のなかには聖典の言葉である古代へブライ語を解するものが少くなったためユダヤ教の聖典 (旧約聖書) のアラム語訳をいう。バビロン捕囚頃よりユダヤ人のなかには聖典の言葉である古代へブライ語を解するものが少くなったため,会堂での祈祷に際して,会衆の理解のため祭司の読むへブライ語原典をアラム語に訳することが行われた。翻訳は,2世紀のエジプト人の改宗ユダヤ教徒オンケロス Onkelos による。したがって,正式にはタルグーム・オンケロスと呼ぶ。単にタルグームというと,タルグーム・オンケロスを指すことが多い。
65) クリスター・ステンダールは,ローマ3章22節において,「イエス・キリストを信じる信仰」によって(口語訳)と訳されてきた dia pisteos Iesou Xristouという句も,「イエス・キリストの信実によって」と訳することが可能とされ,それはまた「神の契約に対する忠実としての義が,イエス・キリストの信実(pistis)によって(顕された)という意味をもつとされる。これもまた主格的か目的格的かが論議される中心的な属格表現である。『パウロ解釈の新視点についての一考察―ルター神学の立場から』(橋本昭夫 『福音主義神学』46号 2015年 81頁)。
66)『資本主義の終焉と歴史の危機』(水野和夫 集英社新書 2014年 196頁)。
67)『言葉と物―人文科学の考古学―』(ミシェル・フーコー 渡辺一民・佐々木明訳 新潮社 2012年 278頁)。
68)『長崎の鐘』(永井隆 サンパウロ 1995年 143,146,148頁)。「燔祭」hl’A[ オラー〈全焼のいけにえ〉は焼き尽くすので,煙が昇っていくことが特長。『セプトゥアギンタ訳』ではo`lokautw,mata ホロカウトーマタ 英語「ホロコースト」(ナチスによる殺りく)はギリシア語七十人訳聖書の「焼かれたいけにえ」が語源。
69)『NHKラジオテキスト』(島薗進「物語のなかの宗教」2015年1-3月 167頁)。
70)『キリスト教と社会学の間』(村田充八 晃洋書房 2017年 201頁)。
日本「祈りと救いとこころ」学会 The Japanese Society for The Study of Prayer, Salvation and Heartmind
“Mourning way of Christian – Asked recent view of life and death”
「キリスト教とボランティア道」 ―水平の<運動>から,垂直の<活動>に―
“Christianity and Volunteer-Dō (=The Principle Way of volunteer)
~From the Horizontal <Movements> to the Vertical <Activities>~ Tokyo University Hongo Campus May 1st, 2016
(1) ボランティア 2 a. ボランティア 2
b. ボランティアとは ① 主体性 3 ② 公共性 5 ③ 無償性 7 c.「道」 8 ジョージ・ミューラー 8 小さくされた人々のために 8
(2) 水平の「運動」の系譜 a.日本の救貧運動の貧困10 阪神・淡路大震災10
b.キリスト教の轍 筆者のスレースケイア11 バラード神父12 新生田川共生会13 東遊園地(神戸市役所隣)13 c.ボランティア運動のパラドックス12 賀川豊彦の救貧運動13 末次一郎との出合い15 宗教遍歴17
(3) ボランティア運動の不活発―青少年運動の不活発 a. 隣人に対する感性の鈍さ18 草地賢一18 青少年運動19 阪神大水害20 b. 宗教者の動き20 アハマディア派21 労働運動21 女性の躍進21 タコへの覚醒22 共食による神の国実現23
c. ゴキブリでなければ「田・山・湾の復活」はなし得ない 被災地のゴキブリ24 隣人とは異教徒24 共生,共苦,苦縁25
(1) ボランティア道 a. ボランティア
主題聖句のラテン語は,quoniam exhortationem quidem suscepit sed cum sollicitior esset sua voluntate profectus est ad vosです2)。「ヴォルンターテ」という用語が出てきます。副詞形ヴォルンターテ「自ら進んで」の語源は動詞「volo(ヴォロ)」(「欲する」「求める」「願う」の意)です。ヴォロの名詞形 voluntasヴォルンタースには「意思」「自由意思」「意図」「善意」「喜んでする覚悟,熱意」などの意味があります3)。ラテン語ヴォルタースからから英語volunteerが誕生します。「ボランティア」の源流は聖書が起点です。ボランティアとは何かを紹介する出版物は全部といっていいぐらい聖書から始まったことが書かれていません。またキリスト教会も自覚していないのです。ヴォロは英語will(意志)の語源です。「意志」will と「意思」intention は異なります。「意思」は心の中に思い浮かべているだけにすぎません。一方,「意志」は,心の中に思い浮かべていることを行動に移す積極性を示唆しています4)。ボランティアは水平の「運動」ではなく,垂直の「活動」です。つまりボランティア活動は「市民運動」「社会運動」「政治」とは一線を画します。ヴォロの形容詞形voluntaryボランタリから「ボランティア」と「奉仕」の違いが明らかになります5)。ボランタリは「人の決定を拘束しうるいかなる強制からも自由なこと」と定義されます。「奉仕」は「仕え奉らん」が源です。「仕え奉らん」は『日本書紀』『万葉集』などに出てきます。帝に仕え奉るなどの用例で用いられています。『大辞林』には「奉仕」を「国家・社会・目上の者などに利害を考えずにつくすこと」と紹介しています。つまり「奉仕」には“奉仕する者”と“受ける者”との上下関係が示唆されています6)。「奉公」「奉納」「奉職」など「奉」の字には,目上の人から物や命令を,つつしんでうけることを意味します。「奉」に「亻( にんべん)」がつくと,俸給などに用いられ,上からのいただき物となります。社会的契約,規範,制約のもとに行なう他者や社会への貢献活動には,貢献する側と受ける側の対等性が損なわれます。たとえば,学校の授業の一貫として強制力をもって,被災地などの清掃活動をしたり,「良心者」7)(良心的兵役拒否者 Conscientious Objector )がコミュニティ・サービスとして行なうことはボランティアとは言えません。1993年に,中央社会福祉協議会は「21世紀に向けたボランティア活動の意見具申」を出し,有償ボランティアを是認しました。すると「ボランティア活動」が「奉仕活動」とは違うように,本来の「ボランティア」とは何かの混乱が生じてきています。
b. ボランティアとは
ボランティアに要請される性格は,主体性,連帯性,無償性であり,この3つにボランティアの理念が表現されると言われてきました8)。
しかし,筆者は自発性,無償性には同意しますが,「連帯性」より「公共性」が時宜にかなっていると思わせられます。他に,自発性,利他性,福祉性,社会性,連帯性,継続性,開拓性,先駆性など種々の視点もあります9)。
b. キリスト教の轍 「みなしごや,やもめが困っているときに世話をし,世の汚れに染まらないように自分を守ること,これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」(ヤコブ 1:27)。「信心」(英語 religion「宗教<『新改訳』>」ギリシア語 スレースケイア)です。語源スレースコスは,特に宗教的規定や神信心の外にあらわれた形式を注意ぶかく守ることにつながります。宗教者ならば,最も後回しにされる「みなしご」(孤児)や「やもめ」を世話することがオプションではなく,標準の基準になります。新約に4回出ているスレースケイアの文脈からも,「キリスト教は生来特別な祭儀的行為を要求しない」と判明します46)。敬虔な信者に見られる会堂で祈祷,賛美,説教を中心とした信仰生活を受け入れていない世に対して出て行くのです。東北ボランティアに今も突き進む,駆り立てる,あきらめない根底には,信仰があります。
筆者のスレースケイアはどのように培われたのかは母の影響です。私の父裕治[1919-1988]は家計のために腹一杯食べることもなく,塩をなめながら,貧しい家族を養っていました。母無畏子[1921-1992]は,白百合学園で身についた校風や,思春期の15歳に献堂された麹町教会[現在聖イグナチオ教会]で培った施しの精神が旺盛でした。
幼稚園から帰ってくると,近所の「乞食」,傷痍軍人,困窮している人々にソッと百円札を手渡している姿を何度も見かけました。子ども心に「自分たちがひもじいのに,どうして」とわだかまりがありましたが,そんな母は偉大に思えました。思春期から成人するまで一番影響を受けた末次一郎先生[1922-2001年]にはなかったキリスト教のcharity面です。アリの町のマリアと言われた北原怜子[1929-1958]や,アウシュビッツの聖者と言われたマキシミリアノ・マリア・コルベ神父[1894-1941],ゼノ・ゼブロフスキー修道士[1891-1982]の生き方をよく子どもに聞かせました。私たち兄弟にとり,3人はまぶしい存在でした。戦争孤児のために尽くした道を雑誌「無原罪の聖母の騎士」も部屋のどこかで見かけるローマ・カトリック教会信者の典型的な環境でした。ポーランド人コルベ神父,ゼノ修道士は1930年に来日し,約30年間,孤児,行き倒れ,病人,浮浪者の世話をしました。北原は20歳でゼノ修道士から感化を受けます。
北原の働きは神戸にも種を蒔くことになります。社会福祉法人暁光会は,1954年,神戸に誕生します。創始者ロベール・バラード[Robert Vallade 1914-2009]神父は,戦後1950年に来日しました。苦しみの中の自分は何ができるのか考えた結果,1953年東京の蟻の町へ行きます。北原さんから同じような救貧運動をするように促されます。神戸市生田川の河川敷のバラック小屋に住み,バタ車(大八車)を引きながら,バタ屋の仕事をしました。収益を貧しい人に施したのです。「人を救うという不遜な心ではありません。貧しい人達の手伝いになり,自らも苦しみ共に悲しみを分かちあうことが私の願いです」,とバラード氏はインタビューに応えました。生田川から武庫川に,やがて大阪,京都にエマウスとして活動が広がります47)。日本で一番貧しい区域と言われる釜ヶ崎で炊き出しを始める契機となりました。
エマウス運動も1960年頃に曲がり角にさしかかります。経済的に立ちゆかなくなります。回収した廃品の価格の低さ,回収する人手不足,町内会や子ども会などとの回収の競合などが要因です。神戸の生田川,武庫川の河川敷を拠点とする救貧運動はピリオドが打たれます。垂直の「活動」は人々から評価されません。バラードのように,一般に,世間を驚かせる名著も書いていません。なぜなら垂直の「活動」とは忘却される活動だからです。親鸞,空海,道元は大きな影響力において圧倒しています。偉大な名著を通じて,水平のの運動は歴史上,その時代のみならず,現在に至るまで,病める人々を癒してきたことも明白です。しかし,超越論的存在は,抑圧された社会,被災地,戦場に対して,「まことにあなたは御自分を隠される神(ラテン語訳 deus absconditus)」(イザヤ45:15)です。苦悩を味わう神です。神の苦悩と神の愛についてまるでコインの裏表と理解してはなりません。神の怒りは闘うのが常です。人類愛,博愛,母なる神のようになんでもやみくもに「神の愛」「御仏の大悲」「柔和」という看板で受容するなら食わせ者です。一枚看板の水平の「運動」はオブラートで人々の不満,怒り,くやしさを包み込みます。神の怒りを忘却させる運動はボランティア道とは異なります。「隠れたる神」の行為を強奪することにつながるからです。ボランティア道は神の怒りを体現し,抑圧,差別,人権をないがしろにする体制に鉄槌を加えるエネルギーを持ち合わせるべきです。
生田川沿いにあった最大の貧民窟新川で賀川豊彦[1888-1960]の救貧運動は戦前から枯死していませんでした。賀川については後述します。垂直の「活動」に依存した賀川について,仁平氏は一か所だけ,それも出典の小さな文字に埋もれて言及しています。パラドックスで言うならば,ボランティアのリアリティーは目立たないのが本物です。つまり社会からは認められないのです。垂直の「対話」の中から生成する「出来事」だからです。
東日本大震災の3.11の直後,東北行きを準備していることを聞きつけた有川善雄さん[1936-2013]から電話がかかってきました。機構にとりはじめての東北ボランティアです。自宅兼事務所の周囲には全国から物資が山積みになりました。夫婦で積み直したり,整理,運搬のため腰を痛めました。筆者は直前になって,腰痛のため行けるかどうか不安で怯えている時でした。有川さんはクローバーという真珠会社を経営しておられた引退事業家です。ボランティア道を共に歩く意志で一致しました。機構に惜しみなく献金,物資,励ましを届けました。服類はエマウスからのものでした。有川さんは1957年同志社大学在学中に賀川から直接洗礼を受けています。有川や学友伊吹三樹雄さんは東遊園地[神戸市役所南隣]の炊き出しをしていました。機構と連帯した働きを続けて3年目,有川さんは逝去しました。有川さんたちの新生田川共生会は,瀬戸際に立たされるようになります。炊き出しについて,賀川豊彦献身100年記念神戸プロジェクトの実行委員のひとりであった筆者に後継者として白刃の矢がたちます。プロジェクトはただし垂直の「活動」ではなく,水平の「運動」でした。2014年4月から新生田川共生会が毎週木曜日路上生活者に仕えるようにバトンを渡されました。調理は機構第36次東北ボランティアに参加した楠元留美子さんを中心にたいまつが引き継がれたのです。生前有川さんは,神戸でも阪神・淡路大震災以降,炊き出しが週3回実施されていることを言われました。毎回神戸で150人以上の人たちが炊き出しに並びます。しかし,ホームレスではなく,生活保護の人たちがほとんどだと言われました。つまり毎月12万円が支給されている人たちが並んでいるのです。新生田川共生会は東遊園地で少ない野宿者だけに提供していると。同時に2014年3月,東北ボランティアの若者たちに本田哲郎氏が炊き出しに並ばない野宿者をたいせつにするように励ましました。カトリック社会活動神戸センターの山野真実子さんたちのように大規模にできないので,これなら機構でもできると始めました。釜ヶ崎の僧侶川浪剛氏も最初,食材を提供し,共に東北ボランティアへ行った五百井正浩氏,後藤由美子氏,豊原正尚氏,藤丸秀浄氏,横山豊宥氏ら寺院の僧侶たちが米などを支えてくれています。フードバンク関西からの定期的な支援もあり,機構の耕支縁の新鮮な野菜もあり,継続できています。筆者が尊敬する野々村耀さん(78歳「神戸の冬を支える会」初代裏方のひとり)は,野宿もゆるされない時代で夜回りを続けています。「立ち入り禁止とし,金網を囲って閉鎖する。公園などを何もないのっぺらぼうな空間にして,身を隠すことのできる物陰をなくす。(不審者対策,テロ対策などというが,不満を持った人間が増えることを予想しているのでしょう。また,公園の管理・運営を民間企業にまかせ,企業の都合で住めなくするというようなことが進んでいます。)公園やバス停のベンチは横になれないように奇妙な仕切りがつけられているし,歩道橋の階段の下の雨宿りできる空間は入れないように金網で囲われている」と嘆息します。48)。そのような人たちでなく,家も,身寄りも,住民票ももたない路上生活者は20人以下です。そのような人たちを対象にき出しをすべきではないかという助言がありました。有川夫妻,伊吹さんたちは東日本大震災で毎月足を運ぶのと併走していました。生前,見舞に行くと,笑顔で「The Lord makes me an instrument.」(主はわれを道具となせり)と流暢な英語で話しかけましたが,その精神は託された者たちにひたすら走り続ける動機となっています。
c. ボランティア運動のパラドックス
パラドックスとは逆説を意味します。若さを決して見下げられることのない金字塔を打ち立てた仁平氏の「パラ贈与」に集中させていただきます。非難ではなく,クリティックです。クリティックとはギリシア語クリノー「判断する」から由来しています。学術会の気鋭の仁平氏に今後,期待するからこそ,発題しています。まず,「パラ贈与」に黙殺されたと言ってもよい賀川豊彦[1888-1960]と,一章を用いた末次一郎[1922-2001]を取り上げたいと思います。なお末次はキリスト者ではありません。
目次 (1) 伝道をどう考えるか2
a. キリストの命令?
「人々を弟子としなさい」
原罪からの救い
b. キリストご自身はだれも改宗させなかった
ゲラサ
百人隊長
シリア・フェニキア
c. キリストは人々に仕えた
「隣人を愛しなさい」
御国が来ますように
(2) 福音とは伝道ではない
a. キリストの業とは伝道ではない b. 人々に伝える宣教とは3
キリストに倣う
わたしたち自身がキリストの手紙
キリスト者とキリスト教の違い c. 人々を改宗させる聖書的根拠はない4
「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる」は
初代教会で終わった
農夫であるキリストがすでに種蒔きを終えられた
「『主を知れ』と言って教えることはない」 「宣べ伝える人がなければ,どうして聞くことができよう」
⇒ 「わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」 <結論> キリストご自身の福音宣教のあり方5
「寄留の外国人,孤児,みなしご」を世話する
(1) 伝道をどう考えるのか a. キリストの命令? キリストが「教会」(エクレーシア)を建てたのは何が目的だったでしょうか。
伝道して信者を増やすことでしょうか。“the Great Commission”(マタイ28:19)を旗印にしてきました。しかし,キリストは決して回心者を増やしなさいとは言われませんでした。弟子を増やしなさいと言われたにすぎません。西方教会,たとえば,ローマ・カトリック教会のイエズス会士フランシスコ・ザヴィエル[1506-1552]や,プロテスタント教会の福音派は未信者に原罪からの「救い」「永遠の命」「信仰」 を伝えました。
b. キリストご自身はだれも改宗させなかった
キリストご自身はだれひとり改宗に導いておられません。ゲラサで悪霊に憑かれた人にも改宗を迫らず,自分の家の宗教に戻るように言いました(マルコ 5:1-19),百人隊長も回心しなくても「これほどの信仰を見たことがない」(マタイ 8:5-13),シリア・フェニキアの女性(マタイ 15:21-28,マルコ 7:24)に対して回心しなくても「信仰は立派」と言われました。
c. キリストは人々に仕えた
むしろ“the Great Commandment”(「隣人を愛しなさい」に基づいたディアコニア「仕える」「世話する」「給仕する」の模範を示されました。(マタイ 20:28,25:44; ルカ 12:37; ヨハネ 12:2,13:34)。 「御国」 (王国)(マタイ 24:14)が将来に実現するかのような福音も要注意です。戦争,飢餓,貧困,病気,死がなくなる時代の到来をまるで不老長寿の薬を売り歩くのは異なる福音です。(ガラテア 1:8,9)。「神の国は,飲み食いではなく,聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」 (ローマ 14:17)と書かれているように,神によってもたらされる霊的な「義と平和と喜び」 に満ちた状態こそが「御国」 です。したがって,「御国」 [“我と汝の関係”,つまり神が私たちの心の統治者として治めている関係]は西暦一世紀に成就したことが福音です。 「御父は,わたしたちを闇の力から救い出して,その愛する御子の支配下 [御国 バスィレイア]に移してくださいました」 (コロサイ 1:13)。
であるならば,「御国に行けますように」にと祈るのは異質です。「御国が来ますように」 (マタイ 6:10)と心の王座に神を迎え入れる祈りが聞き届けられる基準でしょう。
(2) 福音とは伝道ではない a. キリストの業とは伝道ではない
キリストの十字架(ガラテア 6:14)により,“この世からの救い(salue emundo)”より,“この世の救い(salue undo)”に光が差し込みます。イエス自らも抑圧された罪人,弱者,病人のために派遣されました(für andere da sein)。 「福音」 good newsを実践されます。(イザヤ 61:1; ルカ 4:18)。
キリストのエルゴン「業(わざ)」 とは,「伝道」ではありません(ヨハネ 4:34, 5:36, 9:4,10:25,17:4)。徹頭徹尾に抑圧,差別,人権をないがしろにされている小さな人々に仕えることでした。(マタイ 20:28,23:11, マルコ 9:35,10:43,45, ルカ 22:26, 第2コリント 4:5, 第1テモテ 5:16)。
(ゾゥ デ ウケティ エゴゥ ゼィ デ エン エモイ クリストス オ デ ヌン ゾゥ エン サルキ)「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり。最早(もはや)われ生くるにあらず,キリスト我が内に在りて生くるなり。ラテン語 vivo autem iam non ego vivit vero in me Christus quod autem nunc」(ガラテア 2:20),と私たちの教養,学識,知性は「塵あくたスクバロン くず,廃物,汚物;糞,糞尿の意〉」であり,被災地の息も絶え絶えの人にはむしろ無用です(フィリピ 3:8)。
したがって,キリストについて宣教するとは,イエスとの出合いによって変えられた自分を示すことに他なりません。しゃべくりではありません。
The difference between Christians and Christianity.
4
c. There is no Biblical premise to convert people.
4
“Those who sow with tears will reap with songs of joy” was ended in the Early Christianity.
4
Christ, the farmer, had already finished sowing.
4
“You do not need to teach people with saying ‘Know the Lord’”.
4
“And how can they hear without someone preaching to them?”
4
⇒“I revealed myself to those who did not ask for me.”
<Conclusion>
5
The Gospel mission way of Christ himself.
5
Take care of “the foreigners, the orphans, and the fatherless”.
6
(1) How you do you think about evangelism?
a. Is it the order of Christ? What was the Christ’s purpose of building the “Church Gk ekklesia”?Was that to increase believers by doing the evangelism? It used “the Great Commission” Therefore go and make disciples of all nations, baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit, (Matthew 28:19 NIV) as the flag. However, Christ never told to increase convert to Christianity. He just told to make disciples. The Western Church, for example, Francisco de Xavier of the Society of Jesus [1506-1552] of the Roman Catholic Church, and the evangelical Protestant organizations told the unbelievers about “salvation”, “eternal life” and “faith” from original sin.
b. Christ never converted anyone. Christ himself never led people to convert. He did not ask the person in the Gerasenes who were possessed of evil spirits to convert, and he let the person to return to his home religion. (Mark 5:1-19) Christ said to the centurion “Truly I tell you, I have not found anyone in Israel with such great faith” (Matthew 8:5-13), and to the woman at Syria / Phoenicia “Woman, you have great faith!” (Matthew 15:21-28, Mark 7:24), even though they did not convert.
c. Christ served for people. Rather he showed the example of “the Great Commandment” (Gk diakonia“to serve”, “to take care”, and “to wait on” based on “love your neighbor”). (Matthew 20:28, 25:44; Luke 12:37; John 12:2, 13:34).
We should be aware of the gospel as if the “Kingdome (Matthew 24:14)” will come true in the future. It is a different gospel to sell drug of immortality until the age that the war, hunger, poverty, illness and death will vanish to come. (Galatians 1:8-9). As it is written “For the kingdom of God is not a matter of eating and drinking, but of righteousness, peace and joy in the Holy Spirit” (Romans 14:17) , the condition is filled with spiritual “righteousness, peace and joy” that are given by the God is the “Kingdom”. Therefore, the gospel is the “Kingdom” [“relationship between I and you”, the relationship that the God governs as the ruler of our heart] that was fulfilled in the first century.
“For he has rescued us from the dominion of darkness and brought us into the kingdom of the Son he loves.” (Colossians 1:13)
If it is, it is otherness to pray as “I hope I can go to your kingdom”. The prayer to set the God at your center of the heart as “your kingdom come” (Matthew 6:10) is the standard to be heard.
(2) The Gospel is not the evangelism. a. The work of Christ was not the evangelism. By the cross of our Lord Jesus Christ (Galatians 6:14), light came into “the salvation of this world (salue undo)” from “the salvation from this world (salue emundo)”. Jesus himself was dispatched for suppressed sinners, weak and sick people. (für andere da sein).
He practiced “gospel”, good news. (Isaiah 61:1; Luke 4:18)
Christ’s ergon “work” is not the evangelism. (John 4:34, 5:36, 9:4, 10:25, 17:4) It was to serve the small people, who were suppressed, discriminated and ignored their human rights, first, last, and always. Matthew 20:28, 23:11, Mark 9:35, 10:43, 45, Luke 22:26, 2 Corinthians 4:5, 1 Timothy 5:16).
b. What is a missionary work to tell people? Christians should not “evangelize” desperately to expand the teaching. Through its life, it is only necessary to show the treasure of Christ in the soil pot to people.
“I have been crucified with Christ and I no longer live, but Christ lives in me. The life I now live in the body, I live by faith in the Son of God, who loved me and gave himself for me” (Galatians 2:20).
In other words, it is good enough to tell “’Christ lives within me’. It is the Christian’s way to follow the example of Jesus, ‘Anyone who has seen me has seen the Father’” (John 14:9). (Ephesians 5:1, 2:10).
You do not have to express yourself with the sacred robe, parent organization and knowledge of theological terminology, in order to be seen as a “Christian” label. Tracts, business cards and publications are unnecessary. The evaluation of the God and the public will be defined not by title, knowledge and talking, but by the way of life. Because we are the letter of Christ.
“You yourselves are our letter, written on our hearts, known and read by everyone. You show that you are a letter from Christ, the result of our ministry, written not with ink but with the Spirit of the living God, not on tablets of stone but on tablets of human hearts” (II Corinthians 3:2-3). Christō synestaurōmai zō de ouketi egō zē de en emoi Christos ho de nyn zō en sarki “I have been crucified with Christ and I no longer live, but Christ lives in me. (in Latin, ‘vivo autem iam non ego vivit vero in me Christus quod autem nunc’)” (Galatians 2:20) Own education, knowledge and intelligence are just “garbage, = waste, waste, sewage, dirt, manure”, and it is useless to weak people at the affected area. (Philippians 3:8)
Therefore, missioning about Christ is nothing less than showing yourself who have changed by meeting with Jesus. It is not by just talking.
*It is an example of people’s viewpoint, not just as a basis of the Biblical grounds. Shigeru Nakayama : Pastor Iwamura is actively working not only at Kobe, but also at Ishinomaki. I am looking for his report. Osamu Onodera : Yes. I think his work come from his policy or faith. I think it comes from his religious door. He is fantastic. He does not talk much about his religious thoughts. I think his life itself is the religion. Everytime, he visits here with different members by the wagon car for 10 people.
There is Tetsuro Honda, who is taking care of worker’s haircut and living together with the people whose right of live is ignored, as an unpaid priest in Kamagasaki. <Reference> He is cooperating with “one of the least of these” (Matthew 25:45). According to Honda, people who live at flophouse area or on the street never made effort to be the “one of the least of these”. They were made to be “small and least” by society, institution and enterprises.
Even here, at the affected area, you do not need to do evangelism. “Sowing” that “Those who sow with tears will reap with songs of joy (Psalm 126:5)”, had been finished at the first century. (Mark 4:1-9, Matthew 13:1-9, Luke 8:1-15). The farmer, “a farmer to sow his seed”, that is Jesus Christ had been already sowed seeds in thorns, rocky places, and the wilderness.
Because it is said “They are ripe for harvest (John 4:35)”, reaping is the work of missionary.
Evangelism, such as forced conversion and intimidation that there is no salvation other than Christianity, are derailed from the teaching of the Bible.
<Reference> Ecumenicity HP of Kobe International Christ Church.
There is no biblical premise to propagandize.
<Reference> HP of Kobe International Christ Church.
Evangelism was carried as excuses for occupation of other ethnic groups, destruction of foreign cultures and enslavement of other ethnic groups, which had begun from Constantine the Great [Constantine I, AC.280 – 337] since the 4th century.
c.There is no Biblical premise to convert people.
The Bible testifies. “No longer will they teach their neighbor, or say to one another, ‘Know the Lord’ because they will all know me, from the least of them to the greatest,” declares the Lord. For I will forgive their wickedness and will remember their sins no more” (Jeremiah 31:34).
You do not have to evangelize “Know the Lord (Jehovah)”. The context of “The days are coming” ( , verse 33) means “the end of the period” that Jesus Christ is sent to the earth.
“But in these last days he has spoken to us by his Son, whom he appointed heir of all things, and through whom also he made the universe (Hebrews 1:2)”. It means that we have entered “the era of the end” about 2000 years ago, since the birth of Jesus Christ.
“I revealed myself to those who did not ask for me; I was found by those who did not seek me. To a nation that did not call on my name, I said, ‘Here am I, here am I’’. (Isaiah 65:1)
The publication of “sowing” is also an empty cleverness to find seekers.
Aggressive evangelistic groups born from United States and South Korea are extreme biblical verbalism. People will be mind-controlled to believe the next verse blindly and credulously.
“How, then, can they call on the one they have not believed in? And how can they believe in the one of whom they have not heard? And how can they hear without someone preaching to them? 15And how can anyone preach unless they are sent? As it is written: “How beautiful are the feet of those who bring good news!” (Romans 10:14-15)
There is no reading comprehension ability to enjoy the context while meditating it by alone.
Paul preaches in the verse 20 as “for, Everyone who calls on the name of the Lord will be saved” (Romans 10:13). Even you do not call and seek name of the Lord and there is no one to teach, God says “I was found by those who did not seek me; I revealed myself to those who did not ask for me”. Once promulgated, you cannot make any excuse that you did not know about the traffic rule, and it becomes individual responsibilities. Because, the sowing had already been done by Christ, at Japan that is the East-end of the world, including China and the Korean Peninsula.
“That has come to you. In the same way, the gospel is bearing fruit and growing throughout the whole world—just as it has been doing among you since the day you heard it and truly understood God’s grace”. (Colossians 1:6)
“Planted” from “I planted the seed, Apollos watered it, but God has been making it grow (ⅠCorinthians 3:6)” is not a seed. It is just a seedling, a grafted tree or a cutting that grew from the seed. Paul only gave baptism to two people in his life. (ⅠCorinthians 1:14) Missionary activities, evangelism contests, evangelisms and missionary conferences are only for the purpose of increasing the number of believers and those are only self-satisfaction of the organizer side as well as publicity stunt or money wasting. Is there the place for Christ? Can you say that the gospel is ringing through the majestic synagogue, choir and event while making the authorities, academics and wealthy people to kneel down?
<Conclusion>
The Gospel mission way of Christ himself.
Where is Christ?
“Christ in the Breadline” Fritz Eichenberg [1901-1990]. Print.
What is the manifestation of the gospel? The Bible is consistent. “This is what the Lord says: Do what is just and right. Rescue from the hand of the oppressor the one who has been robbed. Do no wrong or violence to the foreigner, the fatherless or the widow, and do not shed innocent blood in this place.” (Jeremiah 22:3)
“Religion that God our Father accepts as pure and faultless is this: to look after orphans and widows in their distress and to keep oneself from being polluted by the world.” (James 1:27)
In Japan, Christ exists among suppressed “foreigners” like Koreans in Japan, “orphans, fatherless”, children whom lost their parents at the disaster, “widows” that lost their husbands, and discriminated people live in Buraku. To serve such “one of the least of these” is the Jesus’s gospel and work.